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生田キャンパス史(2)(キャンパス編)

ヒマラヤ杉の並木(撮影松下 以下同じ) 生田神社 動物慰霊碑 旧本館の車寄せ跡

2021.1

生田キャンパス史(2)


明治大学史資料センター   
 運営委員          
松下 浩幸(農学部教授) 

 

 今回は生田キャンパスにかつてあった旧陸軍登戸研究所関連の戦争遺跡について詳しく紹介したい。中でも当時の研究所の雰囲気を、今もよく残しているものがヒマラヤ杉の並木である。生田キャンパスのシンボル的な存在でもあるこのヒマラヤ杉は、旧登戸研究所の本館前にあったもので、本館はヒマラヤ杉の並木と現在の図書館との間にあった。並木の間に今も現存する歩道のカーブは、本館への車寄せのための跡であり、1944年10月にはこの地に当時、陸軍に所属していた大正天皇の第4皇男子・三笠宮崇仁親王が、研究所視察のために降り立った。三笠宮は戦争の早期終結を図った皇族の一人である。このような歴史を持つヒマラヤ杉一帯は登戸研究所時代の面影を今に伝える貴重な場所だが、すでに植樹から80年近くが経過していることもあり、残念ながら樹木の倒壊が危険視されている。
 また現在、生田神社と呼ばれている神祠は、昭和18年3月に東京・戸山にあった陸軍科学研究所の神社に祀られていた八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)を分祀して創建されたものである。研究所という場所柄、知惠の神である八意思兼命が祀られたものと考えられ、当時は弥心(やごころ)神社と呼ばれ、研究所の殉職者を祀るための慰霊祭や、戦捷祈願、あるいは戦地への出征者の見送りなどもここで行われたという。戦後、アメリカ軍に接収され、一度廃社にされたが、昭和25年に明治大学が大蔵省からこの地の払い下げを受けた際に、豊受大神と天照大神を祀り、生田神社と改め再建した。境内には1988年に元の所員有志によって建てられた「登戸研究所跡碑」がある。その裏面には「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」という句が刻まれ、戦中・戦後と公にされることがなかった研究所での日々を、数十年経て今、ようやくこの地で振り返ることができたという、所員たちの複雑な思いが詠まれている。
 さらにもう一つ、旧登戸研究所時代の関連遺跡として「動物慰霊碑」がある。これは生田キャンパス正門守衛所の脇にあり、高さ約3m、幅約1m、奥行約15㎝の一枚岩で出来ており、動物慰霊碑としては国内最大級である。石碑の表には「昭和十八年三月 陸軍登戸研究所建之」とあり、研究で用いられた実験用動物を慰霊するために登戸研究所が建立したものでる。この石碑の費用は、1943年春、当時の首相兼陸相の東条英機から授与された、陸軍技術有功章の副賞であった金一封(当時の金額で1万円。現在の1000万円相当)が用いられ、弥心神社と共に同時期に作られた。現在も毎年10月にはこの碑の前で、農学部の研究に使われた動物たちを供養するために動物慰霊祭が行われている。
 その他にも生田キャンパスには旧陸軍の☆のマーク(五芒星)が付いた消火栓(図書館前と学生会館前)や、第一校舎の裏手、西南門を入った所には倉庫跡があり、かつての薬品庫、通称「弾薬庫」と呼ばれた場所が存在する。このように明治大学生田キャンパスでは、旧陸軍登戸研究所時代に設置された戦争遺跡を保存し、歴史からの教訓を今に伝えることに努めている。