Go Forward

明治大学体育会端艇部(スポーツ編)

春日敏 春日敏の葬儀 山田耕筰を囲む武田孟と牛尾哲三 第1回日立名三大学レガッタのパンフレット 式典最後の校歌斉唱 『明治大学体育会端艇部百年史』

 

「劣等感は敗戦に通ず」
 
 1903(明治36)年8月に明治法律学校は明治大学と改称した。この頃注目されたスポーツ活動は運動会と端艇(ボート)競漕会であった。そんな中、立教中学のボート部が事故により廃止され、明治大学の学生であった春日敏、佐竹官二が同部所有の2隻を買い取り練習を始めた。大学もこれを承諾し、ここに明治大学初の運動部として端艇部が誕生した。時に1905(明治38)年であった。
 (学生の自治組織である「明治大学学友会」が創られたのは1906(明治39)年、その会則の第4条では「本会ノ目的ヲ達成スル為メ左ノ諸部ヲ置ク。」として「一 庶務部 二 陸上運動部 三 水上運動部 四 学芸部」が設置された。この水上運動部が端艇部を意味している。『明治大学百年史』によると端艇部創部が公式には1906(明治39)年となっているのはここに理由がある。)
 創部の立役者となった春日敏は校内活動も活発に行い、同志と語らって後に『明治評論』となる『学叢』という雑誌を出し、学生たちの意見を掲載した。卒業後は官界、実業界そして日本漕艇協会(現、公益社団法人日本ボート協会)と幅広く活躍し、1941(昭和16)年の東京オリンピック(戦争により中止)開催に向け戸田ボートコース建設に尽力した。1964(昭和39)年、アジアで初の東京オリンピックでは競技委員を務め、このときの制服は秩父宮スポーツ記念館に寄贈された。1974(昭和49)年3月22日90歳で逝去。葬儀には、生前楽しみだと言っていた明大、東大など10本のオールアーチの中を通り出棺した。
 当時の競技団体は大日本体育協会(1911(明治44)年創設)があるのみだったが、1920(大正9)年にはその設立に明治大学も参加し初の競技種目別統括団体である日本漕艇協会が設立された。そして同年10月には明治大学を含む5校によって第1回選手権競漕大会が開催され大学対校レースが行われた。
 明治大学校歌は、この第1回の選手権競漕大会に間に合わせるように作られた。つまり、明治大学には開校以来約40年間、校歌、応援歌はなかった。そこで1920(大正9)年春から学生(武田孟、牛尾哲造、越智七五三吉)が校歌作りに取り組んだ。牛尾は1920(大正9)年5月初旬に児玉花外を訪ね、校歌作詞を依頼した。だがその詞は作曲の山田耕筰には「音楽になじまない。」とされ、紆余曲折を経て大会の3週間前に歌詞は出来上がった。山田耕筰は、第7回オリンピック(アントワープ)に派遣される選手団激励のための「青年の歌」を作曲していたが、その曲を聴いた牛尾が懇願して校歌に編曲してもらった。こうして明治大学校歌が完成したのは大会1週間前であった。
 今も続く定期戦は、1954(昭和29)年に開催された日大・立教・明治の三大学レガッタで同年6月隅田川において距離3900メートルで開催された。今はボートシーズン到来を告げる春に戸田ボートコース距離2000メートルで開催されている。
 1963(昭和38)年、当時の若手OBが東京都漕艇協会に加盟し、相模湖レガッタに参加するに際し、個人名での登録が出来ず「紫紺クラブ」として参加した。それとともにOBを組織化し、学生支援を意図した組織として明治大学艇友会が創られたが、OBも増え1973(昭和48)年に「駿台艇友会」へと名称変更され「会員相互の親睦と端艇部発展を図る」ことがその目的として規約に明記された。令和になり、駿台艇友会とOB‣OGからの支援、幅広い支援者からの寄付であるスポーツサポート資金を合わせて購入した4隻(8人乗り、4人乗り2隻、2人乗り)を進水させた。
 部員は4年間を合宿所で過ごす。墨田区向島にあった合宿所が現在の埼玉県戸田市に移転するのは1964(昭和39)年5月である。1937(昭和12)年に起工した戸田ボートコースの工事に際し、工事費捻出のためコース両側の土地が各大学に売却され、入札で明治大学は550坪で現在の合宿所の土地を購入した。これは前出の春日敏が購入し大学に寄贈したものである。当初は木造2階建、その後鉄骨造、そして2000(平成12)年から2001(平成13)年にかけての改装を経て現在に至っているが、戸田で当時の面影を残す数少ない合宿所となっている。
 創部百周年は2004(平成16)年、記念事業の一環として2003(平成15)年11月13~24日イギリス遠征を行い、シェフィールド大学、ロンドン大学、オックスフォード大学を巡回して交流戦を行った。2004(平成16)年11月6日には大学創立120周年記念事業のひとつとして建設され、竣工したばかりのアカデミーコモンの「ビクトリーフロア暁の鐘」にて体育会43部で初の100周年記念パーティーが400名を上回る出席者を得て盛大に開催された。さらに、『明治大学体育会端艇部百年史』が刊行された。
 大出彰駿台艇友会会長はその挨拶の中で、「希望を持ち目標に向かって全力を尽くし、悔いのない自分の人生の財産となるよう、明治ボート部の歴史と伝統の一翼を担って行くとの気概を持ち、百周年を新たな出発点として現役、艇友会一丸となって一歩一歩着実に進んで行こうではりませんか。栄光の目標に向かっての努力と研鑽を心より願ってやみません。艇友会は時代の状況に対応した運営の有り方を図りながら、部の運営、活動の為に出来る限りの支援、応援をしていくつもりです。」と話している。
 端艇部の課題とするところは、今まで110年以上にわたって蓄積されてきた伝統をしっかりと継承し、それをさらに発展させ次代に引き継ぐことである。伝統とはどのような時代背景のもとでも通用するものである。つねに原点に立ち返り、高い理想をもって伝統を実践すること、そして他者を思いやる豊かな心を育むという人間形成の場、ボート競技の精神を習得する場を若者に提供し、それを競技成績に反映させていくことが、端艇部の課題である。端艇部は、体育会45部のなかで最初に創られたということを誇りにし、体育会全体の発展のため貢献することを当然の義務と考えている。明治大学体育会端艇部は、体育会発展のために、さらには日本のボート界のために、今後も力強い歩みを続けるであろう。
 
引用文献
『創部110周年記念誌 明治大学 端艇部略史~時代を越えて~』(編著者/森 久)
参照文献
『明治大学体育会端艇部百年史』
『駿台艇友会 会報』
表題
 鈴木貞助(1926年卒)「オアズマンの心の持ち方」から