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明治大学体育会自動車部(スポーツ編)

ダートトライアル 軽耐久用車両 三歳を顧みて 初代部長所有車 初代部長所有車説明 松平康昌 松平康昌名刺 全関東ジムカーナ

 

自動車部の歴史
 

創部は1932(昭和7)年4月15日、初代部長先生は松平春嶽の孫、福井松平家17代当主、侯爵松平康昌先生(戦後GHQに入り天皇制存続に命を懸けた3人の男として2017(平成29)年NHKのBSプレミアムで紹介された。奇しくも2016(平成28)年先生の乗っていた車がレストアされ幕張メッセで展示された)。当時国策として関東の10程の大学に自動車部を作らせたといわれており、他校とは数年の間に創部が集中している。当部は1933(昭和8)年に日本一周して全国の物産を集め白木屋で販売し、陸軍にバイクを奉納した。1934(昭和9)年の主将に伺うと軍との出来レースで車も燃料も用意され、学生がこれだけ協力するのだから国民も協力しろ、ということだった。このことは創部3年を記念して1935(昭和10)年に発行された、厚さ4㎝、厚表紙のついた部誌「三歳を顧みて」に記載されている。(1冊現存)。その本には写真が多く使われ訓練の様子なども掲載されているが、ほとんど軍との共同訓練又は軍の協力で行っている。
 戦後は大学にトラックがあっても運転できる者が少なく、部員が椅子や机などを運んで大学再興のために働いた。そのまま物資・人員の輸送に協力し昭和40年代までは学長・総長・理事長の送迎を行い、平成初期まで様々な形で大学の運行に協力してきた。1953(昭和28)年野球部の島岡監督初優勝の時に神宮球場から優勝パレードの車を運転し、以後優勝パレードのオープンカー運転は2016(平成28)年まで続き運転した部員は良い思い出になっている。
 競技では車という道具のため時代によって内容が変化してきたが「フィギュア」という競技は1934(昭和9)年慶応との対抗戦を行っており現在まで続いている。他にダートトライアル、ジムカーナという種目がありそれぞれ関東・全日本の試合を行い3種目合計で関東・全日本の総合杯を争っている。全日本総合杯獲得は平成に入って2回、2004(平成16)年を最後に遠ざかっている。自動車部というとよく「ラリー」と聞かれるが危険で事故が多く昭和50年代初頭には公式戦は行われていない。
 昭和20~40年代は車を運転することは若者の憧れであり新入部員は100人以上入部し、たった5大学で東京~大阪間往復耐久ラリー、全日本大学鹿児島~東京間スクーターラリーを行うなど今では考えられない時代であった。昭和50年代から徐々に入部者が減ってきたが興味があり自ら入部してくる者もいる。車はいらない、というような風潮があり車に興味がない若者が多い。しかし、所有しなくても運転できない若者が多いことは小さな社会問題になっている。運転できない又はとても下手な若い社員がいて事故が多く会社が困っている。地方勤務や都内でも部署によっては運転がマストになっている。以前は買い物・病院に徒歩、自転車で行っていた高齢者が車で行動している。昔とは中身が違う車社会であろう。若者が年を取った時どうするのだろうか。大き目の車やトラックを運転できる部員は貴重な存在になりつつあるように思う。