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明治大学体育会ローバースカウト部(スポーツ編)

結団式(旧記念館中庭、1924年2月1日)(明治大学ローバースカウト部沿革史『遍歴』より転載) 全国少年団大会、横田秀雄学長(当時)訓示(旧記念館屋上、1928年10月14日))(明治大学ローバースカウト部沿革史『遍歴』より転載) 福岡公次(前列右から2人目)、関忠志(前列右)、宇田庫人(前列左から2人目)を囲んで。女子部発団記念式典(旧明治高校ホール、1975年10月5日))(明治大学ローバースカウト部沿革史『遍歴』より転載)

 

ローバースカウト部 その遍歴
 

体育会ローバースカウト部

 

 明治大学ローバースカウト部は、1924(大正13)年に発団した。発団の提案者は商学部学生勝矢剣太郎である。当時勝矢剣太郎は、戦後ボーイスカウト日本連盟第4代総長となる貴族院議員・子爵の三島通陽のもとで秘書として仕事をしていた。同時に三島通陽と共に「弥栄ボーイスカウト」でボーイスカウト活動も行っていた。
 ボーイスカウト運動は1907(明治40)年にイギリスで始まり、間もなくヨーロッパやアメリカに伝わり、アメリカでは一大教育機構として発展した。日本には1908(明治41)年に伝わり、全国各地に少年団が数多く作られた。三島通陽もその少年団の一つである「弥栄ボーイスカウト」を設立した。その後、各地の少年団の全国的な統一結成への動きが起こり、1922(大正11)年4月13日に静岡市で全国大会が開催され「少年団日本連盟」が設立された。勝矢剣太郎はこの全国大会に三島通陽と共に「弥栄ボーイスカウト」から出席している。
 1923(大正12)年9月1日勝矢剣太郎は横浜で関東大震災に遭遇した。軽はずみな風評による人々の行動、その惨状を目のあたりにし、ボーイスカウト運動の重要性を改めて痛感した。勝矢剣太郎は、明治大学にボーイスカウト団を設立することを考え、同じく三島通陽の「弥栄ボーイスカウト」で活動していた一年後輩の商学部学生福岡公次と共に設立の準備に入り、 1924(大正13)年2月1日、「明治カレッジスカウト」として、日本で初の大学スカウトが発団した。
 この発団メンバーの一人に関忠志がいる。関忠志は本郷にあった少年団で活動していたが、勝矢剣太郎、福岡公次に誘われ入団した。卒業後は、宮内省に奉職し、主として御料林の監査に従事し、全国の御料林を歩いた。戦後、ボーイスカウト運動の再建に従事、日本連盟総主事となった。その後、文部省(当時)の青少年教育審議会委員、中央青少年団体連絡協議会委員、日本キャンプ指導者協会副会長、ボーイスカウト日本連盟理事等を歴任した。関忠志は、戦前の少年団日本連盟の機関紙『少年団研究』、戦後のボーイスカウト日本連盟の『スカウティング』に数多く論文を発表し、併せて、キャンプに関する書籍も出版している。1959(昭和34)年に出版した『キャンピング読本』は、当時キャンプに関する書籍が少なかった時代、多くのボーイスカウトたちのキャンプの教本となり、この本を基にキャンプを行っていた。
 発団から4年たった1928(昭和3)年、ローバースカウト部は全国少年団大会を企画開催した。当日は、東京を始め遠く仙台、愛知からも少年団が参加し、総勢1421人の大人数になった。ローバースカウト部OBと現役22人での企画運営であった。発団5年目の一大学スカウト部にすぎない団体がこれだけのことを実施したのである。この全国少年団大会を企画運営したメンバーの一人に宇田庫人がいる。卒業後は東京瓦斯(当時)に入社し、東京瓦斯時代に石油タンクから重油が流れ出した事故の際は先頭に立って指揮を執り、東京湾への流出を防いだのは、スカウト経験の賜物とのことと後に話していた。
 紙幅の関係で紹介できないが、ローバースカウト部では、他にも別表のとおり多くの卒業生が活躍し当部を支えてきた。
 しかしながら、発団当時からローバースカウト部を支えてきたのは、関忠志と宇田庫人である。関忠志は、ボーイスカウト日本連盟の要職を歴任した関係で、ボーイスカウト活動の組織の中から現役スカウトを指導してきた。体育会加盟前には当部の隊長も務めている。宇田庫人は、戦前のOB会スカウトクラブの役職を歴任し、戦後は駿台スカウトクラブの会長を長く務め、OB会として現役支援の中心的存在となっていた。
 当部の発団のきっかけの一つに関東大震災を忘れてはならない。この流れを受け継いで、阪神・淡路大震災、中越地震、そして、東日本大震災では現役部員が長期の奉仕活動を行ってきた。また、全国少年団大会のように大規模ではないが、東日本大震災の後、福島県新地町、宮城県気仙沼市の子供たちを集めてデイキャンプを2014(平成26)年から継続して行っている。1943(昭和18)年に発行された当部の『健児団部20年史』の全国少年団大会について報ずる文章の最後に次の一文がある。“遂に勝りて微々たる一個団は全世界のスカウト運動に勇敢に確実に一矢を放ったのである。」(原文のまま)当部は日本連盟設立の2年後に発団した。当時の先輩たちのこの精神を忘れず今後の活動を行いたいと考えている。

別表
◎設立後発展に尽力した卒業生
吉田伴一(1927年卒)・白石潔(1929年卒)・植村亮次郎(1932年卒)・小山太一郎(1932年卒)・伊藤祐太郎(1933年卒)・清水良一(1934年卒)・斎藤彌太郎(1935年卒)・片山誠之助(1936年卒)・本吉伴拾(1937年卒)・竹内次郎(1938年卒)・三上隆彦(1938年卒)・勝山慶一(1941年卒)・中島常男(1942年卒)
◎戦中戦後の活動を支え、戦後いち早く活動を再開させた卒業生
赤塚盛彦(1946年卒)・徳田精宏(1948年卒)
◎戦後の活動に尽力した卒業生
徳田元英(1951年卒)・大屋政夫(1952年卒)・杉田一男(1952年卒)
◎部の再建に尽力した卒業生
船越浩(1964年卒)・坂西敏之(1965年卒)
◎大学職員としてローバースカウト部を支援した卒業生
中島常吉(第2代団長)・西周安雄(1953年卒)
◎ボーイスカウトの連盟に所属しローバースカウト部を支援した卒業生
佐藤満(1943年卒)・上田稠(1952年卒)