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明治大学体育会応援団(スポーツ編)

相馬基 関東大震災の復旧作業(左端が相馬、1923年) 相馬と各部の記念写真(1924年) 相馬の三三七拍子(1924年) 相馬の断髪式(1924年) 横綱大鵬断髪式での相馬基(1971年)(東京毎友会提供)

 

明治大学応援団結成の背景と校歌「白雲なびく」
——初代 応援団団長 相馬基
 
 明治大学応援団OB会 三森勳
 
 1920(大正9)年に完成した明治大学校歌。そのきっかけになったのは、当時の花形スポーツ〈隅田川端艇レース〉の対抗試合に応援歌が必要であったことである。
 当時の好敵手、早稲田大学は既に校歌を大学創立25周年の1907(明治40)年に制定しており、明治大学の学生はこれに対抗すべく校歌募集を行なったにも拘らず、学生たちが進んで歌うに足る校歌とはならなかった。
 学生たちの声は1920年春の予科大会で「校歌制定」の決議となってあらわれた。実際に校歌の作成に尽力したのは、当時学生だった武田孟(後の総長)、牛尾哲造、越智七五三吉の3人である。
 その翌年の1921(大正10)年当時、野球は今日ほど普及しておらず、ボートレースが学生スポーツの花形であった。第2回関東大学高等専門学校競漕大会の際に早稲田大学に対抗して、できたばかりの校歌をもって相撲部出身の相馬基が応援団を組織した。長髪という異様な姿で、しかも当時は自由であった紋付羽織袴で独自の紅白の扇子を左右に持ち、紅白を交互に裏表にして、出来たばかりの″白雲なびく″の校歌に合わせて指揮をしたのが応援の初演である。
 1922(大正11)年に「愛と正義を標榜して、学内の推進力になろう」を目的として正式に「明治大学應援團」が発足した。もちろん初代団長は相馬基である。紋付袴姿での「三、三、七拍子」は、相撲部出身の氏が創作した応援形式で、その後の我が国における応援形式の基礎が生まれたのである。また、肩より上に両手を広げて柏手するリーダーテクニックも、相撲の不知火型の奥義から古式ゆかしい美と豪放の精神を基礎とした種々の所作を相馬が取り入れたのが原型とされる。1923(大正12)年の9月に起きた関東大震災の際の母校復興運動は相馬以下、応援団が中心となり体育会含め全学生の先頭に起ち校舎復旧に努力したその姿こそ応援団の進むべき目的となるのである。
 この様な人物であったからこそ、相馬団長が1924(大正13)年卒業の時、大講堂において、元大審院長で前学長の富谷鉎太郎博士の「ハサミ入れ」により断髪式が行われ、学生千余名が校歌「白雲なびく」を合唱するうちに 肩まで垂れた二尺余りの長髪と涙の別れを告げる劇的シーンが展開されたのである
 ご存知のように応援団には競技者のように記録・得点はない。1年生から4年生まで全員がレギュラーの団体なのである。その中で最も重要なことは応援の本質、応援団の本質を改めて認識することだと痛切に感じる。
 応援団における応援の精神とは利他主義が本懐であり、それは奉仕の精神であり自分自身のことではなく、頑張ろうとする他者を支援する。また、頑張る人を支援したい、と思う人々の心をリードし、一つにまとめ、大きな力へと換えて送り届けること。これは今も昔も変わらない、『明治大学応援団』の存在意義である。そのためには、頑張る人々の気持ちや応援しようと思っている人々の気持ちを汲み取り、それに応えられる存在でなければならない。
 私たち応援団の後輩は先輩達から常にこう言われていた、「縁の下の力持ちたれ」「マシンオイルたれ」そして「謙虚に」。相馬基の精神を受け継ぐ者として。

相馬基【初代応援団長】(1919年明治大学法学部入学、1924年卒業)
 当時は予科、本科合わせて5年であった。
 1924年東京日日新聞社(後の毎日新聞)入社後、相撲記者「編集兼印刷発行人」となる。
 1975年迄 最古参記者として健筆を振るった。
 その後も日本相撲協会教習所教師として相撲道、詩吟を教えるなど、相撲ひと筋だった。
 大相撲の近代化をはかるため、相撲協会に仕切りの制限時間を進言した。
 1981年没、85歳