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明治大学体育会明大スポーツ新聞部(スポーツ編)

2019年10月31日付で発行した創刊500号の1面(左側)と最終面(右側)

 

明大スポーツ新聞部の歴史と「独立自治」

丸石伸一(明大スポーツ新聞部監督)
 
 学内唯一のスポーツ紙「明大スポーツ」は、体育会各部の活躍とともに、大会記録だけではうかがい知ることのできない選手たちの息づかいを脈々と伝えてきた。
 その歴史は、1953(昭和28)年にさかのぼる。学生運動の広がりで学内が揺れるなか、明治大学体育会は自身の意見や活動を伝える媒体をつくろうと、「新聞作成の協力」を呼びかけた。これに応じたのが、初代編集長となる当時2年生の石井義郎だった。中高で新聞づくりに打ち込んだ石井に、級友の対馬靖治も加わり、大学スポーツ新聞の先駆けとなる創刊号が発行された。当時の題字(名称)は「駿台スポーツ」だったが、その後いったん「明治大学体育会機関紙」に改称し、1956(昭和31)年にいまの「明大スポーツ」になった。草創期の3年間を支えた石井は卒業後、静岡新聞の記者として活躍し、地方紙が伸長した時代を支えた。
 創刊後しばらくは部員不足や発行費の確保に苦労していたが、1957(昭和32)年に転機が訪れる。第3代編集長の石本寿夫のもとに「各部の年間活動記録を1冊の本にできないか」という依頼が舞い込み、「体育会誌」として短期間で仕上げた。これが各部との絆を強めるきっかけになり、学内での存在感も次第に増していった。体育会誌はいまも毎年、編集・発行を続けている。
 注目ニュースを速報する「号外」を初めて出したのは1977(昭和52)年、伝統のラグビー早大戦での14年ぶりの勝利を「〝紫紺〟は勝った!」の大見出しで伝えた。翌年から「ラグビー号外」として試合前に国立競技場で配り、大学ラグビー人気をもり立てた。以来、両校の新聞配布は、試合当日の風物詩になっている。
 技術革新にともなう進化も続く。1986(昭和61)年に日刊スポーツ新聞社での紙面編集・印刷へと移行したのを機に、コンピューターでの製作が本格化し、翌年にはカラー紙面を始めた。インターネットの普及とともに1999(平成11)年、公式サイト(現「明大スポーツWEB」)を立ち上げ、SNSなども使ってネット配信を強化してきた。
 伝統の継承には、OB・OGでつくる「明和会」の役割も大きい。創刊時から学生主体で運営してきた部を側面から支え、求めに応じて技術指導もした。90年代に入ると部員不足で厳しい時期が続いたため、創刊50周年を機に「現役指導部」を設けて支援を強めた。長く学生の相談相手をしてきた柳沢逸夫が中心となり、マスコミ関係のOB有志らがコーチ役を務める指導態勢が確立した。
 体育会規約が見直された2011(平成23)年、44番目の部として体育会に加盟した。柳沢が初代監督に就き、「新生明大スポーツ」を指揮した。機関紙の立場を離れ、体育会の一員となった部の役割を明確にしようと、第2代監督の梅野修は「編集綱領」をつくった。綱領では、「独立自治を堅持し、事実主義に徹する」など三つの柱を掲げ、「言論機関としての役割を果たす」と誓う。
 学外では、「早稲田スポーツ」をはじめ他大の創刊に協力し、東西約30紙のリーダー役を担う。紙面への評価は高く、大学新聞コンテスト(朝日新聞社主催)のスポーツ新聞部門では過去9回中6回、最優秀賞に輝いている。歴代部員たちの努力と、柳沢や梅野、2019(令和元)年まで監督(第3代)を6年務めた山根俊明の指導が実を結んだ。
 2020(令和2)年9月現在、創刊504号の紙齢を刻み、600人を超える部員を輩出した。多岐にわたる業種で活躍し、なかでも大手新聞社やスポーツ紙、NHK、民放キー局など主要メディアへ毎年のように多くの人材を送り出している。
 次は創部70年が節目となる。今後も、現役部員の「独立自治」を重んじる伝統を引き継ぎ、学生ならではの自由で独自性が高く、先進的な発信をめざしていきたい。
 
 マスコミ業界で活躍したOB(主な役員経験者)
  石井 義郎(1955年度卒) 元・静岡新聞社 取締役販売局長
  柳沢 逸夫(1968年度卒) 元・日刊現代  取締役
  黒内 和男(1977年度卒) 元・下野新聞社 専務取締役
  山岸  均(1981年度卒)   読売巨人軍 取締役連盟担当