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磯部四郎—日本近代法学の巨擘—(法曹編)

磯部四郎

2021.6

磯部四郎—日本近代法学の巨擘— 
 
明治大学史資料センター所長
村上 一博(法学部長) 

 磯部四郎(いそべ・しろう)は、大正12(1923) 年9月1日、関東大震災に際して、本所区亀澤町の自宅から被服廠跡地(現在の横綱町公園)に避難したところ、猛烈な火災旋風にまかれて焼死した。遺体は焼き尽くされて何一つ残らなかったため、神谷町にある光明寺の墓所には、前年に市電事故で切断された左足膝下部分が葬られた由である。
 四郎は、嘉永4(1851) 年5月26日(生年月日には異なる表記が多く、特定しがたい)、富山藩士林太仲英尚の第四子として生まれた。一旦、上野宗右衛門の養子となり養家を継いだ(上野秀太郎と称した)が、維新後脱藩し、出生地の名をとって磯部四郎と改名した。その後、許されて帰藩するも、東京に出て、昌平黌・達理堂(村上英俊の仏語塾)で学んだのち、大学南校に入学、さらに司法省明法寮に転学してボワソナードの教えを受けた(いわゆる正則科一期生の一人である)。同科を終了後、フランスに留学、パリ大学で法学士号を取得して、明治11(1878) 年12月に帰国した。岸本辰雄・宮城浩蔵らとともに、フランス法派法学者の草分けの一人である。帰国後の功績を、時系列的に思いつくまま挙げてみると、①旧刑法の編纂時に刑事弁護と陪審制の導入を逸早く主張、②ボワソナードによる旧民法(とくに財産取得編第二部)の編纂作業に参加(草案編纂委員・内閣委員など)、③法典論争において断行派の中心的役割を果たし、④明治民法の編纂作業(法典調査会主査委員など)に参加、⑤日本弁護士協会を拠点として刑法改正案に反対するとともに、陪審制の創設に尽力、その他、⑥大審院の判検事を務め、⑦五度にわたって東京弁護士会長となり、⑧衆議院議員・貴族院議員にも選出され、⑨明治法律学校では、明治18(1885) 年1月から、フランス民法・旧民法などの講義を担当した(『仏国民法先取特権及抵当権講義』『仏国民法証拠編講義』『日本民法草案財産取得編講義』『民法相続編講義』など多くの講義録が残されている)。まさしく、自他ともに認める明治大正期を代表する法学者、我が国における近代法学の巨擘と呼ばれるに相応しい人物である。
もっとも、教科書裁判で有名な歴史家の家永三郎は、その名著『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967年)において、明治憲法制定当初の憲法解釈書のうち、磯部四郎口述『憲法講義』(同盟書館、明治22年4月刊)が、「おそらく最も非民主主義的色彩の強い註釈」であり、「官僚法律家」磯部の著作は「官権偏重の色彩濃厚」と手厳しく非難している。この指摘の当否について、ここで詳しく検討する余裕はないが、少なくとも、刑事弁護や陪審制の必要性(刑事被告人の人権擁護)に逸早く着目し、ボワソナードを経由して近代フランスの民法学の市民法学的性格(国民の私法上の権利自由)をもっとも正確に理解していた法学者の筆頭に、磯部が位置づけられることは確かであろう。
 明治政府の法制官僚・大審院判検事・東京弁護士会長などの要職を歴任した磯部であるから、さぞかし法律家然とした厳めしい御仁かと思いきや、その性格は真逆と言って良い。軽妙洒脱な座談の名手であり、原被告を取り違えて弁論していることを裁判官から注意されるも、居直って平然と弁論を続けるなど、法廷での逸話には事欠かない。法曹界における「磊落豪放・奇才機知」の「首領」であり、まさに「国宝的心臓」(横田秀雄)だと半ば呆れ気味に賞賛されている。また、「詩文を能くし、呉峰と号して詞藻界に名あり」、「浄瑠璃義太夫に堪能」で玄人はだし、「遊芸は以て粋人の王者」とも評されたが、意外なことに、酒は一滴も口にしなかったと言う。
 
【参考文献】
 村上一博編『磯部四郎論文選集』信山社、2005年
 平井一雄・村上一博編『磯部四郎研究』信山社、2007年
 木々康子『蒼龍の系譜』『陽が昇るとき』『林忠正とその時代』筑摩書房、1976~1987年