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立川雲平—島崎藤村『破戒』に登場する市村弁護士のモデル—(法曹編)

立川雲平(市立小諸図書館蔵) 立川葬儀風景(同館蔵)

2021.12

 立川雲平—島崎藤村『破壊』に登場する市村弁護士のモデル—
 
明治大学史資料センター所長
村上 一博(法学部長)
 
  島崎藤村は、明治39 (1906) 年に自費出版した『破戒』のなかで、「佐渡の生れ」の「肥大な老紳士」で、「かねて噂に聞いた信州の政客」「善にも強ければ、悪にも強いと言ったような猛烈な気象から、種々な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗め尽して、今は弱いものの貧しいものの味方になるやうな涙脆い人」として、市村弁護士を登場させたが、この市村弁護士のモデルと言われているのが、佐久の民権派代言人・政治家として名高い、立川雲平(たつかわ・うんぺい)である。
 雲平は、安政4 (1857) 年8月27日、淡路島の南端、津名郡洲本町宇山で、蜂須賀藩の「足軽」傳平の長男として生まれた。父の傳平は元郷士で、幕末の混乱期に350匁で武士の株を買って卒身分となったため、小禄で家計は苦しかった。藩校文武館で学んだのち小学校教員となったが、18歳の時、恩師の伊藤聴秋ら(愛国公党の大阪会議に参加)から自由民権思想を聞いて「大なる奮発心を起し」、淡路島の自由党に入った。「天性の弁口を利用して一家を立つるは代言人に限る」(下記自叙伝)と考え、明治14 (1881) 年6月(24歳)、東京に出て、1月に開校されて間もない明治法律学校に入り、翌15年秋期の代言人試験に及第(7月に自由党に正式に入党)、16年1月に洲本に帰って、内町3丁目に代言人事務所を開設した。東京帰りの新進気鋭の地元出身代言人であり、弁舌を得意としていたことから、門前市をなす盛況であったと言う。神戸地裁洲本支部に保管されていた民事判決原本をみると、立川代言人の名前は、16年3月12日付の洲本治安裁判所判決(37号事件「貸金催促ノ訴訟」)が初見である。しかし、ある刑事事件の弁護で「如此被告事件に対して有罪の判決を下さば、明日太陽西より出ん」と述べたことから、官吏侮辱罪に問われ、懲役2ヶ月・営業停止3ヶ月の有罪判決を受けた。出所後、東京で代言人事務所を開いたが、その2年後、岩村田の茂木彦太夫から十九銀行頭取(早川重右衛門)告訴事件の依頼を受けたことを契機に、龍野周一郎らとの交流が始まり、岩村田に移って、佐久自由党の再建や廃娼運動に奔走することとなった。
 立憲自由党に入り、24 (1891) 年に長野県会議員、翌25年2月の第2回衆議院選挙で当選(以後2回当選)、本会議で、浅田知事以下長野県庁をあげて行われた長野県第6区の中村弥六に対する選挙妨害の事実を厳しく糾弾した(同年、小諸義塾創設者の牧師木村熊二と出会い、キリスト教の洗礼を受けている)。この他、立川の議会活動で特筆すべきは、38 (1905) 年12月28日、第21回帝国議会最終日における、明治憲法が保障する臣民の言論出版の自由を訴え、政府の社会主義取締政策を批判した演説を行ったことである。「凡庸ノ政治家ハ・・・自家ノ臆断ヲ以テ曲学阿世ノ学説ヲ喜ンデ、少シデモ革新的議論ニ遭フト、周章狼狽スルモノデアル・・・濫リニ圧制束縛ノ政策ヲ断行スルヤウナコトガアツテハ、禍実ニ測リ知ルベカラザルモノガアル」と手厳しい。これが、国会演説で「社会主義」という言葉が使われた最初であり、荒畑寒村は「これぞ軍国主義の奴隷国会における、ただ一つの自由に対する言論だった」(『平民社時代』)と評価している。
41 (1908) 年5月の第10回衆議院選挙で3回目の当選を果たし、請願委員長に選ばれて活躍が期待されていた矢先、42年7月、屠場法改正事件に連座(収賄容疑)して、懲役6ヶ月の実刑判決を受けたことで、議員を辞職するとともに、弁護士資格も剥奪された(この事件は、日糖事件との関わりも推測されており、未だ真相は明らかでない)。大正2 (1913) 年、大正天皇即位による恩赦で弁護士資格が復活したので、満州にわたって、大連市聖徳街で弁護士事務所を開設した(8年大連市会議員、10年同議長、大連新聞社社長にも就任した)。昭和7 (1932) 年大連から淡路島に戻り、11年1月24日、洲本市宇山で死去した。享年79歳であった。墓は、洲本の安覚寺にある。
【参考文献】 
 立川雲平「[自叙伝]思ひ出し思ひ出し」田川五郎編『故郷遥かなり』非売品、2010年
 田川五郎『最後の民権政治家 立川雲平』中央公論事業出版、2011年
 上原邦一「卓堂立川雲平の生涯」(1)(2)『信濃』17巻5・6号、1965年