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利光鶴松—代言人から小田急電鉄社長に—(法曹編)

利光鶴松

2021.5

 利光鶴松—代言人から小田急電鉄社長に—
 
明治大学史資料センター所長
村上 一博(法学部長)
 
 利光鶴松(としみつ・つるまつ)は、文久3 (1863) 年12月31日、豊後国大分郡稙田(わさだ)村字粟野(現大分県大分市)に、市松(一町二、三反の中農)の子として生まれた。15歳のとき、市松が死去したため、農家を継いだが、湧き上がる向学心を抑えることができず、母と妹を捨てて度々出奔、日出の帆足塾、豊前の恒遠塾、但馬の青谿書院、備後の宇都宮龍山塾などで、漢学を学んだ。明治17 (1884) 年2月、意を決して、叔父の品吉とともに郷里を発ち、山陽道から東海道を歩いて上京した。神田や本郷などを転々としたのち、同年12月、東京府西多摩郡五日市町(現、あきるの市)の豪農深澤権八宅に寄寓して自由民権思想にふれ、五日市小学校(勧能学校)の教員となった。利光は自伝に、「深澤権八氏ハ・・・頗ル篤学ノ人ナリ。凡ソ東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シ居タリ・・・氏ハ予ニ対シテ、氏ノ蔵書ハ好ムニ任セテ、之ヲ読ムノ絶対自由ヲ与ヘラレ、予ハ読ムベキ書籍ニハ、曾テ不自由ヲ感ジタルコトナシ」と記している。ちなみに、80年あまり後の昭和43 (1968) 年8月、利光のこの自伝に導かれて、この深澤家の土蔵を調査した、東京経済大学の色川大吉教授および当時ゼミの学生であった新井勝紘氏(のち専修大学教授)らが発見したのが、「五日市草案」として知られる私擬憲法草案である。同草案は、明治14年頃に、千葉卓三郎(観能学校校長)が起草したもので、国民の基本的人権を規定した点で優れた民衆憲法草案だと評価されている。利光は、こうした西多摩の自由民権思潮のなかに身を置くことで、向学の対象は、それまでの漢籍から、政治・経済・哲学および法学などの翻訳書へと移り、代言人を志すに至るのである。
 代言人を志した利光が学びの場に選んだのが、代言試験で多数の及第者を輩出していた明治法律学校であり、明治19年4月に入学した。学費や生活費一切は、警察官となった品吉(のち鶴松と入れ替わりに明治法律学校に入り、代言人となった)の収入に頼っており、生活するのに手一杯で、参考書類は一冊も購入できず、友人からすべて借覧し、講義の筆記は塵紙や藁紙を使用して余白にも余すことなく書き込んですべて暗記したと、自伝は記している。猛勉強の甲斐あって、僅か一年間在学しただけで、翌20年4月の代言人試験に及第、10月に神田猿楽町の樫村病院の横丁で開業、主に、木場・神奈川・信州の顧客をえて繁盛したようである。
 代言人業の傍ら、明治22年、大同団結運動に参加して各地を遊説、翌23年、大井憲太郎が再興した自由党に加入した(23年11月の第一回帝国議会を構成した各政党の歴史と現状を纏めた『政党評判記』を執筆している)。29年2月に東京市会議員、31年3月には衆議院議員に当選、6月の憲政党創立に際しては幹事となっている。33年10月立憲政友会の立ち上げにも奔走した。利光は、主に星亨の側近として政治活動を続けてきたが、34年6月21日に星が伊庭想太郎によって刺殺されると、政界を引退して実業界に転身した。
 東京市会議員時代から東京市街鉄道問題に関与していた利光は、鉄道事業に参入した。帝都電鉄(現、京王電鉄井の頭線)を創業したほか、京王電気軌道(現、京王電鉄)、京成電気軌道(現、京成電鉄)などの起業にも参画、さらには、大正12 (1923) 年、小田急急行鉄道を創立して社長に就任した。また、水力電気事業にも早くから注目し、小田急急行鉄道の親会社に当たる鬼怒川水力電気を、明治43年に創業している。昭15 (1940) 年、帝都電鉄・小田急急行鉄道・鬼怒川水力電気を合併して、小田急電鉄株式会社と改称して、社長に就任したが、翌年7月には社長を辞任して実業界から引退、20年7月4日、東京空襲下で死去した(81歳)。なお、現在、小田急沿線(神奈川県大和市)に、幼稚園から短期大学を擁する、カトリック系の大和学園聖セシリアという学校法人があるが、この総合学園は、昭和4年、利光の娘である伊東静江が設立した大和学園女学校が発展したものである。

【参考文献】
 『利光鶴松翁手記』小田急電鉄株式会社、1957年
 渡邊行男『明治の気骨 利光鶴松伝』葦書房、2000年
 『小田急七十五年史』小田急電鉄株式会社、2003年
 新井勝紘『五日市憲法』岩波新書、2018年