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富谷鉎太郎—明治大学第3代学長となった大審院長—(法曹編)

富谷鉎太郎肖像画


 2021.8
富谷鉎太郎—明治大学第3代学長となった大審院長—

明治大学史資料センター所長
村上 一博(法学部教授)
 
 少しややこしい話なのだが、明治法律学校は、1903 (明治36) 年8月に、専門学校令により「明治大学」と改称され、次いで、1920 (大正9) 年4月には、大学令によって「明治大学」への昇格が認可された。したがって、「明治大学」と言っても、法的根拠が異なる二種類が存在するのである。富谷鉎太郎は、「明治大学」(専門学校令)時代から数えると第3代学長にあたる(「明治大学」(大学令)では、第2代である)。これまで、富谷については、学内に資料がほとんど残されていないこともあって、簡単な紹介文さえ書かれたことがなかったのだが、富谷のご子孫から、2017年6月、肖像画・書簡・古記録など約200点が当センターに寄贈されたことで、司法官冨谷の人物像が次第に明らかになりつつある。
 富谷鉎太郎(とみたに・しょうたろう)は、安政3 (1856) 年10月5日、宇都宮藩士であった富谷豊義の長男として、現在の栃木県宇都宮市二條町に生まれた。旧藩設立の「漢学館」(藩校の修学館であろうか)、転じて県立の宇都宮英学館に学んだ。「家貧しくして、学費を得ず、奮闘の苦学を続けて居」たようだが、篤志家の援助を得て上京し、1876 (明治9) 年7月司法省法学校に入学(いわゆる正則課2期生である)、1884 (明治17) 年7月に卒業して司法省御用掛(法学校において後進の指導などを担当)となった。1885 (明治19) 年2月、法学修行および裁判事務研究のため欧州(独)へ派遣され(当初3年間の予定であったが1年延長)、主にストラスブルグの裁判所で資料調査を行ったほか、ベルリン・ライプチッヒの区裁判所を視察した。帰国後、1890 (明治23) 年7月判事試補(東京始審裁判所詰)を皮切りに、芝区治安裁判所判事、名古屋控訴院判事(赴任せず)、1891年1月東京控訴院判事、1894年東京控訴院部長、1900年大審院判事と昇進を重ねていった。この間、訴訟法実務に関して、裁判で使用される法廷調書・判決形式・召喚状・宣誓書などの書式や強制執行に際しての執達吏の携帯すべき書類などについて立案したほか、幾度となく法律取調委員として諸法案の起草・協議に携わった。また、1893年5月帝国大学法科大学講師(商法担当)、1894年6月判事検事登用試験委員・弁護士試験委員、1895年高等文官臨時試験員、同年12月民事訴訟法調査委員、1897年1月法典調査会委員などを歴任、1899月3月27日には、法学博士の学位を授与されている。
 次いで、1903年12月大審院部長、1904年2月高等捕獲審検所評定官、1912年4月和蘭国海牙における手形法制統一萬国会議に委員として参加した。帰国後、1912 (大正元) 年12月東京控訴院長、1921年6月13日大審院長(~10月5日)となり、65歳で定年退職した。その後は、1922~1936年貴族院議員を務め、1936 (昭和11) 年5月5日に死去した(享年79歳)。
 以上のように司法官としての輝かしい経歴を持った富谷であるが、明治法律学校と明治大学においては、1900年前半に、商法・手形・保険法の講義を行い、さらに、大審院長と貴族院議員時代の1921年6月~24年11月に、明治大学学長を務めた。大審院長で学長に就任したのは、富谷のほかには、横田秀雄がいる。富谷が学長に就任したのは、1920年10月のいわゆる「植原・笹川事件」が切っ掛けであった。大学昇格に際して、政治経済学部の設置を見送ったことに対して政治学を志していた学生たちの怒りが爆発、大学当局が8名の学生の放校処分としたことに、学生が反発して同盟休校に入った。12月には、植原悦二郎・笹川臨風の二教授が解雇され、翌1921年5月には、大学構内で、警官隊と学生の大乱闘事件へと発展、この責任を取って、木下友三郎学長以下、掛下重次郎・鵜澤総明・田島義方の4理事が辞表を提出し、新理事として富谷(学長)・杉村虎一・横田秀雄・甲能順が選任されたのである。7月8日、富谷新学長は、全職員に対する訓示において、今回の騒動は「我が明治大学史上に一大汚点を印したるものにして・・・吾人は将来一層の注意を以て教育に当り徐々に此秩序を回復して本大学の名声と真価とを大に世間に知らしめざるべからず」と、一日も早い名誉回復に全力を注ぐ決意を表明している。また、1923年9月1日の関東大震災によって、本学は、本館・二号館・図書館など壊滅的な被害を受けたが、10月15には授業再開、翌年1月15日仮校舎の竣成に漕ぎ着けたが、これも富谷学長在任中の出来事である。富谷の強いリーダーシップが、遺憾なく発揮されたと言えよう。

 追記 最高裁判所図書館に富谷の日記が所蔵されており、今後の検討が期待される。
 
 
【参考文献】
談叢「富谷学長の懐歴」『法律及政治』創刊号、1922年5月
「学長の訓示」『明治大学学報』58号、1921年7月15日(『明治大学百年史』第二巻史料編Ⅱ、1988年)
木村礎「植原・笹川事件」『明治大学百年史』第三巻通史編Ⅰ、1992年