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メイキング オブ ドキュメンタリー「明治大学校歌の原型を聴く」 その2(キャンパス編)

 
2021.8

メイキング オブ ドキュメンタリー「明治大学校歌の原型を聴く」 その2

 

明治大学史資料センター運営委員
福岡英朗(法学部事務長)
 

このコラムは当大学ドキュメンタリー動画「明治大学校歌の原型を聴く」
https://www.youtube.com/watch?v=4J0qLzondmE
の、音楽再現部分と連動するコラムです。書かれているのはプロジェクトの全てではなく、僕の目撃した一部となります。
ここに描かれている以外の出演者、スタッフの皆さま、全ての力で、この動画は出来上がっております。

 
 その1(未発表)までのあらすじ。
 2017年のクリスマス、明治大学紫紺館で行われた校歌原譜再現演奏イベントは無事終わった。これは山田耕筰が書いた譜面を、その譜面とおりに演奏、歌うというイベントで、現在演奏されているテンポよりも速いこと、今では歌われていないパートが有ることもわかり、その再現は、原譜と言いながら編曲を聴いているような(実際には、現在演奏されている内容のほうが編曲)錯覚に陥るほど、「新しい」試みであった。
 達者なピアニストによる演奏と指導で、グリークラブの学生達は立派に歌い、予想を超える人数で来ていただいた聴衆の皆様も満足してくれていたようだ。これで、再現は一段落つき、一旦終了、おつかれさまでした、となった。しかし、まだ、燃え尽きていなかった人物が一名だけ居た。
 
 〈3年後〉
 「やっぱりなんらかの、記録に残す動画は撮ろうと思うんです。校歌100年ですから。」
 2020年の7月、ゆっくりと、それでいて揺るがない決意を持ってムラマツさんは話した。聴くと、場所も明治大学アカデミーホールを予約したらしい。
 「うん。いいんじゃないかな?ピアニストも協力してくれるだろうし、そうだったんだ、もう100年経ったんだ?校歌作られてから。」とマスク越しに応える僕。時はコロナ禍まっさかりの夏、いろいろな制約がある中であっても僕は「まあ何かできるだろうな」というくらいの意識で話していた。
 ムラマツさんと僕は明治大学の職員。一般的にイメージされるいわゆる大学職員というものと、そんなに逸脱していないタイプ、ordinaryな事務職員だ。就職キャリアセンターのイベントで学生へ校歌を紹介する際に、大学史資料センターのムラマツさんへ、校歌の成り立ちを確認してからのご縁だ。
 3年前と同じピアニストの協力は得られそうで、まずは譜面の原本とおり、しかも山田耕筰の音楽的な意志を解釈した上で演奏してくれる人が居てくれることが、なによりの味方だった。
 「あとは、撮影だね。誰も撮る人が居なかったら僕が撮るよ。後輩に映画監督が居るから、なにかコツを聴いておくね。」
 
 映画監督/守屋健太郎。もともと制作会社のテレビマンユニオンに所属しており、「世界ウルルン滞在記」や「食彩の王国」のタイトルバックを作ったりしていたので、多くの人も一度は彼の作った映像を観ているはず。MVはGReeeeNからタッキー&翼まで、多くの有名アーチストの作品を監督した。ドラマや映画では、それこそ森山未來、生田斗真、山田孝之、藤ヶ谷太輔、等々、などなど、誰もが知っている人達を演出している。日テレの朝、「ZIP!」のブレーンもしていたので、テロップに名前が出てくると嬉しかったりもした。明治大学法学部の卒業生でもある。
 その彼へ、ドキュメントの撮り方について聴こうと電話をかけてみると「そうですか。面白そうですね。なんなら現場行ってお話してもいいですよ。」とのこと。タダでわざわざ話を聴きに来てもらうのも悪いので、神保町のマンダラにてお昼を一緒に食べることとした。テーブルに斜め座りしてディスタンスを取って。8月の初旬だった。
 食後、忌野清志郎の影響で自転車移動している(その日も世田谷のほうから自転車で来ていた、8月初旬ですよ!)彼から、自身の自転車がどれだけ格好良いかの説明を聴きながら、明治大学アカデミーコモンへ向かい、そこでムラマツさんと会ってもらった。
 ムラマツさんは丁寧に資料の説明をして、真摯に、残したい物、大切にしたい事の話をしていた。すると徐に守屋監督が「僕、撮りましょうか?」と言い出した。いやいや、予算も無いから、そりゃ無理ですよ、と丁寧に断るムラマツさんと僕。すると守屋監督、「報酬要りませんよ、僕にやらせてください。」と言った。
 驚きながらも「それなら」と既に決まっているピアニストや、会場であるアカデミーホールのこと、スケジュール(2ヶ月後に完パケが必要)について等、今後の段取りを簡単に説明した。映像は撮ってくれるとしても、演奏の録音方法(ムラマツさんはCDクオリティで音も録りたいと思っていた)は決まっておらず、誰も居なかったら録音は僕が担当することを伝えた。
 その帰り道、守屋監督へ話しかけた。
 「大丈夫なの?報酬無しでやるなんて。」と僕。
 「大丈夫ですよ。コロナ禍で映画の予定が延びちゃったし。」と守屋監督。
 「いやいや、でもタダなんて。」と僕。
 「僕、今まで大学に寄付したこと無かったのですよ。なので、これが寄付の代わりとなればな、と思って。」
 この守屋監督の言葉は、この後もずーっと、僕の中に残った言葉だった。人が人へ貢献したいという、純粋な想いを聴くことができた瞬間だった。
 「それに、ムラマツさん良い人だったし。」
 そっか、そういう考え方もあるんだ、有難いね。ん?
 「ちょっと待って、最初にオレが話した時にはやるって言わなかったじゃん。ムラマツさんは良い人だとしても、オレが言った時ではダメだったんだ?」と器の小さい僕が尋ねると、
 「カレーも美味しかったですよ。」守屋監督はそう言うと、えへへと笑っていた。

 録音については、僕がやると言っていたが、後日、守屋監督がHappiness Recordsの田中正さんを連れて来てくれた。彼もOBで「お前、先輩なんだから、母校へ貢献しようよ」と守屋監督が説得してくれたらしい。Happiness Recordsに所属するSaigenjiさんのことを、20年以上前に下北沢で良く観ていたので、嬉しかった。当時Saigenjiさんは超絶ボサノバギターを弾きながらホーミー(当時ホーミーを知る日本人は少なかった)を歌っており、衝撃を受けたものだ。https://www.youtube.com/watch?v=dnAI8TdFL1w
 これで、ピアニスト、会場、撮影監督、録音が決まった。もう撮影まで一ヶ月しかない、突貫工事で準備を進めなくてはならない。キツイけど頑張ろう。という時点で、予定していたピアニストが参加できなくなったという連絡が入った。
 今回のプロジェクトで、最大のピンチだった。必要なのは、ピアノが弾ける人、じゃない。山田耕筰が何を考えて譜面を書いたのかを理解し、その上で解釈して弾ける「ピアニスト」でないといけないんだ。
 
 そんな時、久しぶりに従妹から僕へ電話がかかって来た。コロナ禍の8月、世の中ではおひとりさま、とか、おうちじかん、などの言葉が浸透し始めていた。星野源の歌も、流行っていたような。
従妹も、家に居る時間が増えたのでギターを弾きたい、ついてはギター購入に付き合って欲しいとのことだった。一緒にお茶の水を何周かして、少し予算オーバーだったが、最終的にテイラーのアコギを選んだところが、耳が良い、さすがピアノやっているだけある、ん!ピ・ア・ノ?「あれ?君、ドイツでピアノを勉強していなかったっけ?」「うん。ドイツの音楽大学で勉強したよ。音楽教育部と演奏家学部を卒業したよ。」
 
——————————ーーーーーーーーーーーー 少しだけ息継ぎをした後、
9月のスケジュールが空いていないか?山田耕筰の原譜の再現に興味あるか?彼もドイツで音楽を学んだことに同じ日本人として共通点を感じるんじゃないか?等々、矢継ぎ早に聴いてみた。彼女は「原譜の再現には興味がある。担当の人に会うのも構わない。」とのことで、早速ムラマツさんとの打合せを調整した。
 ピアニスト土山亜矢子はムラマツさんに会うと即答で「やります。」と言った。帰り道でその理由を聴くと「うん。なんかムラマツさん、真面目で良い人だったから。」とのこと。「ねえ、最初にオレが話した時には即答しなかったじゃん。」と器の小さい僕は何度でも同じ問いを言うことができる。土山さんも守屋監督と同じように「えへへ」と笑っていた。
 守屋監督も何度もロケハンをしに、大学へ来てくれたが(ほんとにノーギャラで良いの?)、土山さんもピアノの練習に何度も来てくれた。アカデミーホールのピアノ(彼女はドイツ語で「シュタンウェイ」と言っていた)も気に入ってくれていた。
 
 演奏も、撮影も、録音も、会場も、準備できた。あとは歌だ。時はコロナ禍の日本、コロナ禍の大学。学生に集まってもらって歌うことは許されないし、入構制限だってかかっている。
 そのような状況の中、明治大学グリークラブOB会の渡辺利雅さんが参加してくれることとなった。14人のメンバーも集めてくれたし、インタビューも受けていただけることとなった。実はこの時まで、歌う人間が見つからなかったら、専任職員(職員には入構制限は無いので)数名で歌うことも計画し、実際に声をかけていた職員も居た。声をかけられていた職員は、渡辺さんが引き受けてくれたこと知って、ほっとしただろうと思う。
 渡辺さんは、事前のオンライン会議にも参加してくれ、我々との意思共有に心を砕いてくれ、さらに、14人のメンバーへの練習や指示まで、いろいろなところへ目を配って歌の形を作ってくれた。撮影当日、メンバーが威風堂々とアカデミーホールへ入って来たときの頼もしさ、格好良さを今でも思い出す。
 
 リハーサルの際、最初に気にしたのは、土山さんと渡辺さんの関係性だった。ミュージシャンとヴォーカリストの間に、ある種の緊張感があることは、昔からよく知っているからだ。キースリチャーズとミックジャガー、布袋寅康と氷室京介等々。Ayaseとikuraはそんな風には見えないな。
 そんな心配は杞憂に終わり、二人はどんどん演奏して、どんどん歌って、原譜の解釈を建設的に議論し、整理していった。間に居た僕は「この31小節目なんですが、ここは、こうなのでは?」「33小節目はこう~」という二人の会話に合わせて、一緒に議論していた。「僕が譜面読めないことは、今、二人は想像だにしていないだろうなあ」と思いながら。譜面は読めないが、数字は数えられるので何小節目かはわかるし、弾いたり歌ったりしてくれるので、選択や判断もすることは出来た。でも、今、これを読んで、二人はびっくりされていると思います。「譜面読めていないのに、我々と一緒に議論していたのですね!」
 その後、本番。ベストのテイクが、今我々が観ることのできるこの演奏です。https://www.youtube.com/watch?v=4J0qLzondmE
ピアノも歌も、これまでのベストだし、今後もベストであり続ける内容です。
 録音物を持ち帰り、田中さん達が素晴らしいミックス、マスタリングを施してくれた。歌詞がはっきりと聴こえる仕上がりにしてくれた。ホールの残響というものは、録音において稀に邪魔となってしまうことがあるが、それを上手に活かし、それでいてピアノのアタックまでしっかりと聴こえるミックスは、ヘッドホンで聴いても、PCのスピーカーで聴いてもバランスの良い音像を作り出していた。
 
 四週間後、私が担当する最後の仕事があった。ナレーションの録音エンジニアだった。確か予算的にも、この担当は誰もおらず、私が担当することとなった。で、これが個人的には一番緊張した。失敗してはいけないからだ。やり直しもできない、演者に待ってもらうこともできない、言われた時に言われたとおりのことをやらなくてはならないから。
 それとは逆に、素晴らしい経験でもあった。守屋監督が演出し、三ツ矢さんが演じている、プロとプロとの仕事を間近で見ることができたことに感動した。
 とにかく録音、三ツ矢さんの声を一言でも溢すことはできない。ワンテイク目がリハより音が大きく、レベルオーバーした時は「ごめん!止めて、オーバーしている!」と監督へ大声で泣きついたらまだリハだった、ほっとしたー。
 録音終了後は編集で、これがまた、キツかった。「2テイク目の何秒と、3テイク目の何秒を聴き比べさせてください」「あそこの何秒とここの何秒をつなげてみてください」なんて指示がどんどんやってくる。「え?五つ目のナレーションの、4テイク目の前半ってどれだっけ?あわわ」なんて思いながらも、必死で指示に食らいついて行った。でも、たぶん、監督はあれでもゆっくり進めてくれていたのだろうな。最終的に、この経験をさせてくれたこと、私個人として本当に思い出に残る素晴らしいものとなりました。
 
 このコラムの最初を読み返すと、ムラマツさんの着想から3ヶ月でこの作品が出来上がったこととなる。歌と演奏、音質、画質、演出、プロデュース、どれを取ってもとんでもないクオリティのものが、3ヶ月で完成していた。これも読み直して欲しいが、最初の計画では、僕が撮影して、録音するところだったのだ、ほんとうに危ないところだった。

 今回の一連のプロジェクトを見ていて、「あー、100年前も同じような感じだったのだろうな」ということをふと思った。100年前にも、たった三人の学生が大学を動かし、児玉花外を動かし、山田耕筰を動かし、山田が西条八十を動かし、、、、そういった流れの中で、明治大学の校歌が出来上がっていったことを想像することができた。
今回のプロジェクト過程を目撃することで、「物事は、人のハートによって成されるものなのだ」ということを改めて認識することができた。
 一人だったムラマツさんのハートが、守屋監督をはじめ、出演者や関係者を動かし、最終的に今後100年残るドキュメンタリーを作り上げてしまった。つまり、このプロジェクトの制作過程そのものが、100年前の校歌誕生の再現だったのだ。
おわり
 

 おまけ
 実家で、校歌が出来た頃の写真が無いか探してみた。この方は僕のおじいちゃんで、写真の裏には大正元年十月生まれとあり、今年(つまりこの写真が撮られた年)十才と書かれている。大正元年は1912年であり、満十才であればこの写真は1922年撮影。ただし、当時は数え年で言うこともあったので、その場合は1921年となる。100年前だ。1921年、100年前に、僕のDNAが生きていた(と言うのは烏滸がましいですね、正確にはおじいちゃんのDNAの一部を僕が引き継ぐのです)と、改めて考えてみると、不思議な感じが芽生えた。