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草創期明治法律学校における代言人試験合格者たち(法曹編)

斎藤孝治 平松福三郎 大野清茂 利光鶴松

 
2021.10
草創期明治法律学校における代言人試験合格者たち
 
                        学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
阿部裕樹
 
 1872(明治5)年6月、今日の弁護士に相当する代言人の資格が誕生した。1880(明治13)年8月には、今日の司法試験に相当する代言人試験が初めて実施されている。ちょうどそのころ、明治大学の前身である明治法律学校をはじめ多くの私立法律学校が創立されるが、その背景のひとつに代言人試験合格をめざす若者たちの向学熱があった。
 周知のように、明治法律学校は1881(明治14)年1月に有楽町の旧島原藩邸の一角(数寄屋橋校舎)を借りて開校したが、早くも同年秋の代言人試験において在校生の斎藤孝治ら5名の合格者を輩出した。その後も、翌1882(明治15)年秋季試験の平松福三郎ら5名、1883(明治16)年春季試験の高橋安爾ら7名、同年秋季試験の依田銈次郎ら2名、1884(明治17)年春季試験の豊田鉦三郎ら4名、同年秋季試験の大野清茂ら5名、1885(明治18)年春季試験の丸山名政ら14名、同年秋季試験の岩崎惣十郎ら4名の合格者を輩出しつづけ、開校から5年間(1881~1885年)の明治法律学校関係の代言人試験合格者数は46名にのぼった。ちなみに同期間の合格者総数は385名であったが、合格者に占める明治法律学校関係者の割合は年々増加傾向にあった。そのため代言人試験合格をめざして明治法律学校に入学する学生は急増し(1885年の入学生309名、1886年の入学生599名、1887年の入学生1262名)、開校6年目にあたる1886(明治19)年12月、明治法律学校はより多くの学生を収容できる南甲賀町校舎に移転している。
 この年(1886年)に入学した学生のひとりが利光鶴松である(4月入学)。利光は後年、小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)の初代社長に就任するなど実業界で活躍している。彼の自伝によると、明治法律学校在学当時は経済的な余裕がなく彼自身「悲劇」と表現する貧しい学生生活をおくったが、翌年(1887年)の春季代言人試験に合格した。同試験は606名が受験し35名が合格、うち13名を明治法律学校関係者が占めたが、1年生で合格したのは利光ひとりであった。快挙といっていいだろう。
 最後に利光が挑戦した代言人試験のうち刑法と契約法の問題について紹介したい。すでに公布されていた刑法は全受験者共通の問題であったが、契約法(民法)のような公布(制定)前の法律についてはフランス法とイギリス法のいずれかを選択できた。当時の明治法律学校はフランス法中心のカリキュラムであったから、利光はきっとフランス法を選択しただろう。解答例まで挙げることはできないが、当時の試験問題にふれていただければ幸いである(漢字は常用漢字に直したが、カナ遣いは当時のままである)。
 刑法
第一問 盗罪ト受寄財物費消罪トノ差異如何
第二問 再犯加重ハ一事再理セストノ格言ニ抵触セサルヤ否ヤ理由ヲ付シテ答弁ス可シ
 契約法
仏法第一問 義務相殺ノ定義及其条件如何
仏法第二問 義務ニ関係セサル者義務ノ弁済ヲ為セシトキハ如何ナル権利ヲ有スルヤ
英法第一問 約報ノ定義如何又契約ヲ有効ナラシムルニ充分ナル約報ト否ラサル者トヲ区別シテ説明ス可シ
英法第二問 甲ナル鉄道会社アリ若干月ノ後ヨリ乙ナル工師ヲ雇ヒ入レンコトヲ約シ其後甲ハ乙ニ対シ此契約ヲ履行セサル旨ヲ明言セシトキ期限未タ至ラスト雖トモ乙ハ直ニ之ヲ破約トシテ損害賠償ノ訴ヲ起スコトヲ得ルヤ此場合ヲ推論シテ未行契約ノ違背ニ関スル一般ノ法理ヲ説明セヨ

【参考文献】
阿部裕樹「草創期の明治法律学校と利光鶴松」(『大学史紀要』第27号、2021年)
【付記】
本稿はJSPS科研費(19K02437)の助成を受けたものである。