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大学設置基準「大綱化」以降の本学の教学政策について(その3)(施策編)

「明治大学学長室だより」№58(2004年5月) 「明治大学学長室だより」№99(2012年3月)

 2021.12
大学設置基準「大綱化」以降の本学の教学政策について(その3)

明治大学史資料センター運営委員 
     奥住 賢二 (明治大学総務部長)
 
「納谷学長時代」
 納谷学長は2004年度から2011年度まで、2期8年間学長を務めた。当初のスローガンは「外部評価に耐えうる大学」であった。この間、2008年には国際日本学部を設置し、2009年には国際連携機構を設置することによってグローバル30「国際化拠点整備事業」に採択され、本学の国際化を大きく進めた。一方、研究面では2005年に研究・知財戦略機構を設置し、本学の研究環境を改善することによって、2008年には念願であったグローバルCOEプログラムに「現象数理の形成と発展」が採択された。このことが基になって、2013年には総合数理学部が中野キャンパスに開設された。また、この間に多くの大学教育プログラム(GP)が採択されるなど、教育研究の質向上と多様化が図られた。
 今回も紙面の関係で全ての改革について述べることはできないが、私が特に印象に残った「国際日本学部の設置」と「研究・知財戦略機構の設置」について述べたい。
 1 国際日本学部の設置
 納谷学長就任の翌年である2005年3月に、第1回の新学部等設置検討委員会が開催され、多くの新学部構想が検討された。その中で、納谷学長が当初から熱望したのが「明治大学に国際系の学部とスポーツ系の学部を作りたい」だった。国際系の学部を検討するための専門部会は同年7月に第1回を開催し、11月には答申の原案がまとめられた。私の記憶では、現在の国際日本学部の骨格は、既に第1回の専門部会で提示されていた。当時の他大学の国際系の学部は、基本的には海外の文化・文学及び社会等について学ぶのが一般的であった。しかし、当時の原案時点で、「日本の現代文化を優れた英語により海外に発信する人材を育成する」がコンセプトであった。この「答申原案」について各学部に意見を聞いて回ったが、ほとんどの学部から反対意見が出された。「なぜ、国際学部なのに日本文化を学ぶのか?」、「意味が分からない」、「お前ら正気か?」と言われた。このような学内情勢の中、2006年5月の連合教授会で「設置大綱案」が審議されたが、多数の反対意見が出されたため、挙手ではなく投票により採決することとなった。結果は、僅かの差で「賛成票」が「反対票」を上回った。
 「設置大綱案」が連合教授会で承認されたことにより、設置準備委員会が組織されたが、この時点でも国際日本学部設置に反対する意見は少なくなかった。設置準備が進む中、2006年12月に連合教授会が開催され、「国際日本学部開設に伴う学則本則の一部改正」が審議されたが、通常、このような学則改正は校規整備上の事務手続きなので、挙手で採決されるが、ここでも反対意見が出て投票による採決を望む声が上がった。しかし、納谷学長は、これまでの慣例を貫き、挙手により採決を実行し承認された。
 以上のように、国際日本学部誕生までには数々の苦難があったが、開設前年のオープンキャンパスの説明会では、毎回会場が満席立ち見となる大盛況であった。
 その後の文部科学省への申請手続きや入学試験等の開設前の準備は、事務職員だけでなく、他学部から国際日本学部に移籍予定の先生方も加わり進められ、初年度の志願者数は10倍を超える4,433名で、順調なスタートを切ったと言える。当時は、現在の中野キャンパスではなく、和泉キャンパスで4年間を過ごす形態であった。また、日本人学生と留学生との交流も活発で、近隣の町会の協力も得て、日本の伝統文化を体験する餅つき大会なども開催された。
 
2 研究・知財戦略機構の設置
 納谷学長は、新学部等の立ち上げだけでなく、学内組織の改革にも力を注いだ。特に、2002年度から本学が申請を続け採択まで至っていない「COEプログラム」の申請のためには、全学的に本学の研究を支援する体制整備が急務と考えた。そこで2005年に設立されたのが「研究・知財戦略機構」である。当時の組織は、現在の機構とは若干異なる部分もあるが、まずは、これまでの3研究所体制では不十分であるという認識に立ち検討が進められ、本学の研究支援体制を大きく変えたことは間違いない。事務体制についても、これまでの研究所事務室と知的資産センター事務室を機構の下に研究・知財事務室として統合した。機構長に学長が就任することによって、学長を中心にした本格的な研究マネジメント体制が生み出された。
 また、2008年度グローバルCOEプログラム応募に対応すべく、これまで高い評価と実績のある現象数理科学分野を中核に、「先端数理科学インスティテュート」を立ち上げ、教員任用規程の改正により、機構に所属する研究に特化した教員の採用を可能とした。さらに、若手研究者の育成を考慮し、副機構長に大学院長が就任し、機構と大学院との一層緊密な組織連携を図った。
 このような研究体制整備により、大型研究の審査や特定課題研究所に関わる案件は、全て機構の所管とし、学長のマネジメント体制を外部にアピールできる組織形態を作り上げた。
 
3 まとめ
 以上の取り組みの他、納谷学長は次のような取り組みにも力を入れた。総長制の廃止(二長制への移行)、副学長制の発足、学部長会等の教学決議機関の規程化、任期付きの特任教員制度の制定、認証評価制度の確立、入学センターの設置と全学部統一入試の実施、地域連携活動の支援・生涯学習機会の提供等を推進する社会連携機構の設置等。
 これらの改革を精力的に推進した結果、志願者数は約8万人から11万人を超え全国一位となり、オープンキャンパスの来場者も5万人を超えるなど、高校生や父母から注目と関心を集めるようになった。
 スローガンも「外部評価に耐えうる大学」から、任期2期目に入った2008年より「世界に開かれた大学へ」を掲げ、2010年度には「明治大学グランドデザイン2020-ビジョンと重点施策‐」を制定した。このグランドデザインは、創立150周年を見据え、10年後の本学の将来像(ビジョン)とそれを実現するための重点施策を示すものと位置づけられた。
 納谷学長は、任期最後の学長室だよりの中で、この8年間を振り返り、「それなりに外部評価に耐えうる大学になりえたのではないかと思っている」と言い残し、次期学長に政策を引き継いだ。
 
【参考文献】
学長室だより(No.58~99)