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台湾文化協会と台湾人明大生(留学生編)

林呈禄の肖像

2021.12
 台湾文化協会と台湾人明大生
 
明治大学史資料センター副所長 
高田幸男(文学部教授)
 
 今から百年前の1921年10月17日、台北で台湾文化協会という団体が生まれた。台湾文化協会は台湾文化の発揚のために設立された民間団体で、台湾の社会や文化に大きな影響を与えた。そのため、今年は台湾各地で台湾文化協会に関する学術シンポジウムや記念イベントが開催された。
 協会の設立には多くの台湾人日本留学生が関わっており、そのなかには明治大学出身者も含まれていた。ある研究によると、台湾文化協会の主要幹部・会員52人中、明治大学卒業生は5人で、台湾総督府医学校卒13人に次いで多く、早稲田大学が4人で明治に続いている(日本留学生は合計15人)。1910年代の植民地台湾において、高等教育を受けられる学校は台湾医学校しかなく、多くの若者が「内地」である日本へ留学し、法律学や政治学を学んだ。日本では当時、のちに「大正デモクラシー」とよばれる自由主義、民主主義的な思潮が広まっていた。台湾の若者たちは学校の授業や学外で様々な思想に接し、雑誌を発行するなど、課外活動も活発に展開した。その中心が明治大学や早稲田大学だったのである。彼らは卒業後、弁護士やジャーナリスト、あるいは社会運動家として活動し、台湾文化協会にも参加していく。
 その一人が林呈禄(りんていろく 1886-1968)である。林は台湾桃園の生まれで、台湾総督府の国語学校を卒業後、普通文官試験に合格して台北地方法院に任官する。だが下級官吏で昇進も見込めないので、日本へ渡って明治大学専門部法科に入学し1914年に卒業する。1920年、林は台湾の自治や民主主義を求めて同窓の蔡式穀ら東京在住の台湾人青年と新民会という団体を結成し、雑誌『台湾青年』を創刊する。台湾文化協会に参加した日本留学生の多くは、林も含め新民会のメンバーである。林は『台湾青年』の編集主幹も務め、1923年には半月刊(のち週刊)の中国語新聞『台湾民報』創刊に参加し、台湾文化協会の理事にもなっている。『台湾民報』は台湾でも売られ、協会も啓蒙活動を推進し、「台湾人唯一の言論機関」とよばれた。
 台湾文化協会は政治活動を認められていなかったので、多くの会員は個人の名義で政治活動をおこなった。なかでも台湾議会設置請願運動は、林ら東京在住者を中心に1920年末から始まり、日本の衆議院議員も巻き込んで広く展開された。ところが1923年11月台湾総督府は「治安警察法」により運動参加者の一斉検挙をおこなう。この「治警事件」で、林呈禄も総督府の委託を受けた警察により東京で逮捕される。裁判では、渡辺暢らの弁護団に、明大出身者で台湾文化協会の会員でもあった弁護士葉清耀も加わり、一審では全員無罪を勝ち取るものの、二審で覆され、明大出身者では林呈禄が懲役3か月、鄭松筠、蔡式穀が罰金100円の刑に処せられ、蔡先於は無罪となっている。彼らはいずれも協会会員であった。
 釈放後、林は1926年に台湾へ戻る。翌年『台湾民報』も日本語版を追加することで台湾での発行が認められ、林は以後、理事・主筆・兼編集・印刷局長などを務めた。協会はやがて左右に分裂するが、『台湾民報』(1930年に『台湾新民報』と改称)は1937年に台湾総督府によって中国語版を廃止されるまで「台湾人唯一の言論機関」を守った。そして、台湾新民報社の幹部にはやはり明大出身者が多かったのである。

【参考文献】
 林柏維『台灣文化協会滄桑』台北:台原、1993年。
 黄頌顕編訳『林呈禄選集』台北:海峡学術出版社、2006年。