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普選実現に尽くした「行動の人」(政治家編)

多数ある著作の一部 まなべ幼稚園(江東区)に立つ胸像(台座に岸信介書で「撞球純正スポーツ化の父」のプレートが付けられている) 芭江東区蕉記念館で開催された真鍋儀十コレクション展のチラシ(会期 2021年6月1日から9月26日)

 
2022.1
普選実現に尽くした「行動の人」
明治大学史資料センター運営委員
小西 德應(政治経済学部長)
 
   古暦こだはりも無くはづしたる
   蕊の黄の今濃く紅き菊の花
 これらは『句集 都鳥』の収められた200句のなかの2句である。逓信次官も務めた俳人の富安風生が序文で「俳句制作の本道である写生に立脚している」と作風を評しているように、状況がありありと目に浮かぶ句が並ぶ。作者は俳号を蟻十とする真鍋儀十。「蟻(あり)が十(とう)」を洒落た。俳号からも想像できるように洒脱で、繊細で、それでいて大胆、博学で情熱的、雄弁な人物であった。「ホトトギス」の俳人であっただけでなく芭蕉の研究家でもあったが、戦前・戦後と6期19年間にわたり衆議院議員であり、会社社長や団体役員、幼稚園の園長なども務め、多くの著作を残した。
 今や真鍋の名前を知る人は少ない。しかし衆議院に初当選した1930(昭和5)年に発行された『民政党の陣営より』では浜口雄幸総理ら37人の1人として取り上げられている。同年『文芸春秋』4月号所収の「新代議士座談会」には、同じく本学出身で民政党の高橋秀臣ほか、大山郁夫(労農)、片山哲(社民)らと共に登場している。当選を重ねた1936(昭和11)年に出された『政界第一線に立つ人々』には、久原房之介、中島知久平、鳩山一郎、永井柳太郎、中野正剛ら当時の日本をリードする23人の1人に加えられ、その経歴とともに、「大いにその前途が嘱望され」ると紹介された。一貫して注目を集めた人物だった。
 そのように注目を集めた最大の理由は真鍋の経歴にある。彼は1891(明治24)年に長崎県壱岐に生まれ、長崎師範学校卒業後に同校で主席訓導として勤務した後、1917(大正6)年に本学法学部へ26歳の時に入学した。入学の翌年に米騒動が全国的に展開されたように、社会的閉塞状況下で大正デモクラシーの気風が蔓延していた時期であった。本学で雄弁部に籍をおいた真鍋は、納税要件などの制約撤廃を求める、普通選挙運動に積極的に関与した。大正デモクラシー期は民衆が立ち上がったことが知られているが、この時期のことを扱った研究でも、政党や政治家、思想家、労働組合の動向は対象とされるものの、学生の動きはほとんど研究されていない。このことが忘れられてしまった理由の一つであろう。
 真鍋は雄弁部で築いた他大学とのネットワークをもとに「八大学学生連盟」を組織し、連日のように普選実現に向けた大会を開催した。やがて、警察の尾行が付くようになり、検束されて警察をたらい回しにされることも増えていった。そうしたなか1920(大正9)年1月18日にも日比谷公園で学生普選促進大会を開いたところ、主催者として検束されたが、その直後からも真鍋は集会を開いた。そうした状況に対し、中橋徳五郎文相が9大学長を集めて学生を普選運動に参加させないように求めたことが真鍋著の『地獄の黎明』に『東京日日新聞』(2月1日)を引用して紹介されている。後年の真鍋の証言によると、時の木下友三郎学長は学生の運動に理解があったものの、学長が文部次官に呼び出され、真鍋を在学させておくなら、明治だけを大学への昇格を認めないとの脅しをかけられたことを知り、卒業を目前に控えた2月に自ら退学したという(明治大学雄弁部編『明治大学百年の顔』)。真鍋のこの証言以外に資料は無く実態は不明だが、本学が大学に昇格したのは、彼の退学直後の4月1日のことであった。なお有罪判決を受けたものの、1925(大正14)年に普選法の成立に伴い、無罪放免となり、1934(昭和9)年には卒業認定されている。
 第1回の普選が行われた1928(昭和3)年に出身地の長崎2区から立候補したところ、4議席に10人が立候補し、7番目に終わった。1930(昭和5)年の第2回普選では、東京府4区でトップ当選をはたした。以降、国会では多様な委員を歴任し、敗戦の年には運輸(改組後は運輸通信)政務次官となった。特筆すべきは、1937(昭和12)年に衆議院の代表として「北満皇軍慰問使」となってソ満国境を、翌年には中国北部から中南部も訪れ、それぞれ詳細な紀行文を出版していることである。ここでも俳句同様の写生が生かされた報告となっている。これら以外にも、折に触れ、多くの本を出版した。
 戦後は1951(昭和26)年に公職追放解除となり、終戦直後から始めていた幼稚園を本格化させ、1955(昭和30)年に正式認可を受けている。また同年に第27回総選挙で当選した。ビリヤード場が風俗営業法の対象とならないように尽力したことが評価され「撞球純正スポーツ化の父」と呼ばれ、全国撞球組合名誉会長にもなった。また1981(昭和56)年に松尾芭蕉が暮らした東京都江東区に芭蕉記念館が開館したことに伴い、それまで収集した芭蕉の直筆を含む関係資料約1200点を寄贈し、その翌年に91歳で波乱に富んだ生涯を閉じた。なお芭蕉記念館は2021年に開館40周年記念事業として真鍋コレクション展を開催した。この点からも伺えるように、多方面で精力的に行動した人物であった。
 
※本稿の執筆に際し、芭蕉記念館の伊藤友香子さんに多くの資料・情報提供を頂いた。