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明治大学に残る戦争遺跡(2)(キャンパス編)

写真1 「26号棟」「5号棟」跡地(2022年2月 山田撮影) 写真2 「5号棟」跡を示すサイン(2022年2月 山田撮影) 写真3 解体される前の「5号棟」(2010年12月 山田撮影) 写真4 中央校舎前の「防火水槽」(2022年2月 山田撮影) 写真5 農学部1号館裏の「弾薬庫」(倉庫)(2022年2月 山田撮影)

 2022.2
明治大学に残る戦争遺跡(2) 

明治大学史資料センター運営委員 
山田 朗(文学部教授)
 
 明治大学のキャンパスにはいくつかの戦争遺跡が存在している。すでにこのコラムでも、「明治大学に残る戦争遺跡(1)」(2020.12、山田執筆)として和泉キャンパスの「飯塚先生留魂之碑」が、「生田キャンパス史(1)」「同(2)」(2021.1、松下浩幸農学部教授執筆)として登戸研究所関係の「旧36号棟」(現・平和教育登戸研究所資料館)・「弥心神社」(現・生田神社)・ヒマラヤ杉並木と車寄場跡・「動物慰霊碑」等の戦争遺跡が紹介されている。
 今回は、前回の「飯塚先生留魂之碑」に続いて、目立たず通り過ぎてしまうような戦争遺跡として生田キャンパスの「26号棟跡」「5号棟跡」「防火水槽」「弾薬庫」についてとりあげたい。
 「26号棟跡」「5号棟跡」は、農学部(第1校舎)1号館前にある駐車場として使われているスペースである(写真1)。「26号棟」は2009年に、「5号棟」は2011年に老朽化のために解体された建物で、現在はそれを示す小さなサイン(案内板)があるのみである(写真2)。これらの建物は、共に登戸研究所第三科の偽札製造部門が使用していたもので、「26号棟」は輸送前の偽札をストックしておく倉庫、「5号棟」は偽札の印刷工場だった建物である(写真3)。日本の国家機関である陸軍が、他国(主として中国の蔣介石政権)の偽札を製造し、実際に大量に使われていたという事実は、驚くべきことでありながらこの経済謀略は、ほとんど歴史書でも取り上げられていない。すでに建物がなくなっているわけだが、この場所で何が行われていたのかを伝えるためにもこのサインには意味がある。
 次は「防火水槽」である。登戸研究所の敷地内には100棟を超える建物があったことは終戦直後の航空写真でも確認できるが、その大半が木造建築であり、消火栓(これは2基が図書館前と食堂館前に残存)もあったものの、防火は防火用プール(資料館前に1箇所が残存)と防火水槽に依存していた。建物が健在であった頃は、防火水槽もその周囲にいくつも残存していたが、建物取り壊しとともに防火水槽も姿を消した。現在、資料館前と中央校舎前にそれぞれ1基が残っている。中央校舎前の1基(写真4)はかなり前から花壇として使用されていたため、サインがなければ元々は防火水槽だったことに気がつく人も少ないだろう。
 最後は「弾薬庫」である。現在、第1校舎1号館の裏と資料館近くの斜面にそれは残されている。資料館近くのものはよく知られているが、校舎裏のものはほとんど知られていない(写真5)。ところで、大学内では「弾薬庫」と呼称されてきたこの施設は、実際には薬品等の倉庫であったと推定されている。爆発物を格納するような場所であれば、コンクリートの厚さが全く足りないし、爆風を逃す構造物が必要であるにもかかわらず、残された施設にはそのような形にはなっていない。校舎裏手の倉庫の壁面には「花卉園芸同好会」とペンキで書かれていることから、この施設が部室か部の倉庫などとして使われていたことがわかる。
 戦争遺跡として現物が残せるのが最も良いことは確かであるが、それが無くなってしまっても、何らかのサイン(案内板)だけでもその場所に設置されることには意味がある。何もなければ、通り過ぎでしまうが、痕跡を示す何物かが存在することで、人が立ち止まって歴史・戦争を想起するきっかけとなるからである。