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夏目漱石と子母澤寛—〈佐幕派〉の精神—(文学者編)

子母澤寛 夏目漱石

2022.4 
夏目漱石と子母澤寛—〈佐幕派〉の精神—  
明治大学史資料センター運営委員
松下浩幸(農学部教授)

イギリス留学から帰国し、東京大学講師となった夏目漱石(18671916)が、明治大学の兼任講師となったのは明治371904)年4月であった。その10年後に明治大学(法科)を卒業した作家に子母澤寛(18921968)がいる。漱石と子母澤に直接の接点はないが、しかし、この二人にはある共通点がある。

江戸の最後の年、慶応31867)年に現在の新宿区喜久井町の名主の五男として生まれた夏目漱石(本名・金之助)は、明治大学の講師を務めた翌明治381905)年1月に、作家としての第1作『吾輩は猫である』を雑誌「ホトトギス」に掲載し始める。さらにその翌年には『坊っちゃん』を発表するが、その中で漱石は主人公の「坊っちゃん」を元旗本の後裔である生粋の江戸っ子として描き、その相棒である堀田(山嵐)を最後まで江戸幕府側に立ち維新政府と戦った会津の出身として設定している。そして、二人が敵対する教頭の「赤シャツ」は「ホホホホ」とまるで公家のような笑い方をする男である。文学史家の平岡敏夫氏はこのような『坊っちゃん』という作品を佐幕派のパロディーと指摘しているが、事実、無鉄砲な「坊っちゃん」を可愛がる下女の「清」は、「(幕府の)瓦解のときに零落」した女性とされており、江戸生まれの漱石が、無理な西洋化を推し進める明治の近代社会の反措定として、江戸の末裔たちをこの物語に登場させていることが分かる。
 一方、「座頭市」の原作者であり、『新選組始末記』をはじめ『勝海舟』や『父子鷹』などの幕末物の歴史小説で知られる子母澤寛(本名・梅谷松太郎)のテーマのルーツは、育ての親であった祖父の梅谷十次郎にあったと言える。父母との縁が薄かった子母澤は、この祖父に可愛がられて育てられた。十次郎は戊辰戦争で上野の彰義隊の一員として戦い、その後、箱館五稜郭の戦いで捕らわれ、厚田郡厚田村に移住した江戸幕府の御家人であった。村の名前である「アツタ」は一説ではアイヌ語で「荒海の浜」を意味するとされ、石狩湾に面した長く厳しい冬が続くその村で、子母澤は祖父から新政府軍によって敗れていった者たちの話を寝物語として聞かされたことが、後に彼の世界観を形作ることになる。
 北の厳冬の地で、今はなき江戸への思いを抱き続けた子母澤は、やがて上京し明治大学に入学する。彼がなぜ明大を選んだのか、その経緯は詳らかにされていないが、かつての江戸の痕跡を多く残す神田や近くの上野の風景が、子母澤の心を動かしたのかもしれない。明大卒後、紆余曲折を経て、新聞記者として活躍した子母澤は、その取材の経験から遺談・回想録などを盛り込んだ独自の叙述スタイルを生みだし、その成果はデビュー作『新選組始末記』(昭和3年)に結実していく。奇しくもその年は明治維新から60年目にあたった。風化しつつあった幕末維新の記憶を、子母澤は「聞き取り」という手法によって後世に残そうとした。それはかつて自身が聴いた祖父・十次郎の声を書き留めようとするかのようである。
 夏目漱石や子母澤寛の文学には、時代の変化に軽々には便乗することのできなかった者たちの、哀切にも似た反骨の精神が流れている。
 なお、子母澤寛の故郷・石狩市厚田区では、1974年に「子母澤寛文学碑」が建立され、また2016年からは「厚田ふるさと平和・文学賞」が創設され、子母澤寛の文学への顕彰と、新たな文学の創出を目指し、「子母澤寛文学賞」(短編小説部門)と「愛猿記賞」(エッセイ部門)が設立されている。