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明治大学(明治法律学校)の校友・校友会の歴史・由来と知っていてためになる明大トリヴィア(校友会編)

2-(11) 野球部 柏木グラウンド【1911年】 ※ 現 付属中野中学・高等学校所在地付近 2-(14) 明治大学駒澤運動場 開場は1916(大正5)年 現 東京都世田谷区野沢1丁目35 ※ 1930(昭和5)年、予科移転のため和泉用地を取得したことに伴い、駒澤運動場(約1万坪)は、明治薬学専門学校(現 明治薬科大学)に譲渡 2-(15) 1930(昭和5)年、予科校地として取得した頃の和泉用地。校舎建設前は、総合グラウンド(主にラグビー場、野球場)として使用していた。この頃は、まだ帝都電鉄(井の頭線)は開通しておらず、1933(昭和8)年8月、渋谷・井の頭公園駅間が開通した。

 2022.5
 
明治大学(明治法律学校)の校友・校友会の歴史・由来と知っていてためになる明大トリヴィア
 
明治大学史資料センター運営委員
岩﨑 宏政(大学支援部校友連携事務長)
 
 このたびは、明大生は元より特に校友の皆さんに向けて、校友・校友会の歴史・由来を知ってもらう目的とともに、これを知っていると何かとためになる「明治大学や校友・校友会に関するトリヴィア」を記載したのでご覧いただきたい。
 
1 校友会館の実現の歴史
(1) 初代校友会館
 創立80周年でもある1960(昭和35)年5月、全国校友の念願であった「校友会館」の実現に向けて、駿河台校舎零号館(旧小川町校舎・現紫紺館の所在地)の1階フロア(115坪)を転用(貸与)すべく、改修工事が行われた。(同年9月完成)
 その後、1964(昭和39)年6月に、駿河台校舎零号館(旧小川町校舎・現紫紺館の所在地)の地下1階部分を追加で「校友会館」の施設(グリル:校友・学生向け飲食施設)として利用したいとの申出を行った。
 大学からは、校友会で自営する場合に限り、小規模な店舗経営を認められたが、校友会では外部業者に店舗経営を請け負わせる契約を締結したため、大学はこの改修工事中止を申し入れた。工事を請け負った建設業者がこれを不服として大学に対する訴訟を起こした。【校友会グリル問題】
 
※ 上記の校友会館が実現されるまでは、その礎石として、1937(昭和12)年に、「クラブハウス」との名称で東京・有楽町のビル4階46坪を賃借していた。
 
(2) 創立100周年記念大学会館竣工、6階に「校友センター」完成
 1985(昭和60)年7月、創立100周年記念事業の一環として「大学会館」が竣工した。その6階には、全国の校友が待ち望んでいた「校友センター(校友課、校友談話室)」が完成。その後、学生会中執、革労協による終身会費予納制(新4年生)中止の申し入れに伴い、大学理事会が翌1986(昭和61)年度の新4年生から、この予納制を中止することを決定した。これに関連して俗にいう「校友会問題」の発生につながり,その後校友課業務停止等により同センターが使用不可となった。
 
(3) (校友会創立120周年)新校友会館「紫紺館」の竣工
 上記(2)のとおり、大学会館6階に校友センターが設けられていたが、独立した建物ではなく、しかも十分なスペースとは言えなかった。加えて、所謂「校友会問題」の発生により同センターの使用ができなくなったことから、校友会にとっては、独立した「校友会館」を持つことが長年の悲願となっていた。
 
 2003(平成15)年8月、代議員総会において、「校友会館(仮称)」の建設が提案された。これに大学側の理解を得て、その計画は急速に進展し、大学理事長の下に、全学的な「校友会館(仮称)建設検討協議会」が設置され、実現に向けた検討が進められた。
 
 そして2004(平成16)年の大学理事会において、「大学と校友の連携強化を図り、教育・研究支援に資する校友の活動拠点となる場として同会館が必要」であるため、校友会創立120周年に当たる2006(平成18)年を期して、大学による建設資金(15億円)により、校友会館(仮称)を駿河台キャンパス旧小川町校舎跡地に建設されることが可決され、これが大学評議員会でも可決された。
 
 校友会としては、この建設資金の多くを、校友からの寄付を募ることで負担することを計画していたが、前述のとおり大学の資金による建設となったため、代わりに大学の教育・研究を全面的に支援すべく、大学が募集する「明治大学教育振興協力資金」に賛同し、当面10億円の募金活動を行うことを決定した。そして、大学から校友会及び校友への期待に応えるべく、県単位支部に校友会員数の人数比に応じて寄付金額を割り当てるとともに、2004(平成16)年1月の支部長会において、校友会役員の寄付金基準額も承認した。
 
 2005(平成17)年9月13日、校友会館(駿河台D地区建物)新築工事の地鎮祭が挙行され建設工事が開始された。(2006年11月竣工予定)
 2006(平成18)年5月1日、教職員及び卒業生を対象として、校友会館(仮称)の正式名称の募集を開始した。(募集期間 5月1日~6月17日)
 教職員、卒業生、推薦校友から約200件の応募があり、同年7月5日の同建設検討協議会の建設委員会での審査の結果、次のとおり選定した。
 
 〇 選定された名称 「紫紺館」
 〇 応募者及び命名のコンセプト
   山下 泰(昭和51年 文)
    「明大校友が集うのは『紫紺の旗の下』だと思う。」
   植木 智子(平成10年 政経)
    「『紫紺』は明大のスクールカラーにこだわった。上品で清潔な印象を受け、落ち着いた伝統を感じる。」
 これを受けて、同年7月19日の大学理事会において「明治大学紫紺館」 に正式決定し、同年7月23日の代議員総会で発表された。
 
 かくて、2006(平成18)年12月13日、全国校友の悲願である「明治大学紫紺館」が完成し、竣工式が挙行された。因みに、この竣工は、明治大学創立125周年、明治大学校友会創立120周年の記念すべき年となった。この竣工に合せて校友会は、2006(平成18)年12月16日、校友会創立120周年記念式典を、駿河台キャンパスのアカデミーホールで挙行し、長年の悲願であった「紫紺館」の竣工を祝った。
 
2 明治大学及び明治大学校友会の歴史に係るトリヴィア
(1) 第一期卒業生の発生及び校友規則の制定 1882(明治15)年 
 ア 10月に第1回卒業試験が実施され、第一期入学者のうち19名が卒業。この年に校則を改正し、修業年限を3年とし、第一年、第二年、第三年の三期に分け、さらに1年を前期と後期に二分して定期試験を実施。
 
 イ 12月 校友規則が制定され、我が国で初めて「校友」という名称が制度化された。その後、多くの専門学校でも「校友」という名称が使用されることになる。(校友規則は、教則中心の「明治法律学校規則(校則)」とは別立で独立した規則)
 
(2) 「明法雑誌」の発刊 1885(明治18)年
 母校と校友間の交流を図るために、月刊「明法雑誌」という機関紙の発行を決定。
 
(3) 南甲賀町校舎落成 1886(明治19)年
 12月11日 駿河台南甲賀町11番地(現 日本大学病院敷地の一部)に総工費約1万3,000圓、建坪約600坪の南甲賀町校舎(敷地借地:校舎自前)が落成。数寄屋橋の旧島原藩邸からの移転。
 
(4) ボアソナード博士フランスに帰国 1895(明治28)年 
 3月 明治法律学校は元より、我が国の法学界に偉功を残したギュスターヴ・エミール・ボアソナード博士がフランスに帰国。
 
(5) 校友会本部の設置 1899(明治32)年
 7月 校友規則を改正し、校友会本部を南甲賀町校舎内に設置。
 
(6) 卒業生に対し「明法学士」の称号贈呈 1900(明治33)年
 2月 明治法律学校の卒業生に、「明法学士」の称号を贈ることを決定。当時の学士(東京大学卒業生)と対等な価値があると認められるほど権威のあるものとした。
 
(7) 創立記念日が休校となる。 1902(明治35)年
 1月17日 創立記念日を迎える。この年から創立記念日は休校となる。
 それまでは、創立記念日には通常の授業が行われていた。
 
(8) 専門学校令による「明治大学」設置認可 1903(明治36年)
 8月25日 文部大臣から専門学校令による「明治大学」への改称が認可。入学資格は中学校卒業。修業年限3年以上で、予科、研究科、別科を設置することもでき、修業年限1年半以上の予科を設置する専門学校は、「大学」の名を冠することができた。
   
(9) 経緯学堂での授業開始 1904(明治37)年
 9月17日 明治大学の特別教育部として、清国の子弟を教育する「経緯学堂」での授業を開始。学堂(1903年に錦町3丁目に分校新設)での教育は、長期(2年)・短期(1年)の二種で、普通科・高等科に分かれ、普通科卒業者は大学専門科に、高等科卒業者は大学本科に入学することができた。
 
(10) 小松宮邸内に運動場完成(賃借) 1906(明治39)年
 9月 駿河台袋町の小松宮邸(現 アカデミーコモン付近)を賃借し、約600坪の運動場が完成
 
(11) 野球部の創部及び柏木グラウンドの開設 1910(明治43)年
 6月 野球部の創部が決定し、東京府豊多摩郡中野町(現 付属中野中学・高校付近)に約7,000坪の土地を購入し、「柏木グラウンド」を開設。
 
(12) 創立30周年記念式典挙行 1911(明治44)年
 10月14日の前後6日間に、創立30周年記念式典と新校舎落成・移転式を兼ねて挙行した。来賓には、本学商議員、名誉講師でもある内閣総理大臣の西園寺公望も出席し祝辞。因みに移転先は、先に運動場として賃借していた小松宮邸の一部(現 リバティタワー付近)を賃借して、本館、図書館、初代記念館ほか付属建物7棟など、総建坪数2,450余坪が落成。
 なお、賃借していた現駿河台キャンパス用地(小松宮邸跡地)を、1916(大正5)年7月に、小松宮家から購入取得。

(13) 校旗の制定 1915(大正4)年
 4月 木下友三郎校長が、母校の永遠の発展を期し、「校旗」を制定。
 
(14) 明大駒沢運動場の完成  1916(大正5)年
 5月 東京府荏原郡駒沢村の陸軍世田谷砲兵旅団の東南約1万坪の土地に、二万人収容の新運動場が完成(現在の世田谷区野沢1丁目35世田谷ティーズヒルの場所)。柏木グラウンドを売却し、新たに購入したもの。野球部のホームグラウンド移設。
 
※ 現在の東中野の柏木グラウンドの跡地には、1929(昭和4)年5月、財団法人徳光育英会による「ひとのみち教団」の教団関係者のみの学校として、中野学園が開校。1949(昭和24)年から明治大学付属となり、付属中野中学・高校となった。

(15) 商議員会、予科の和泉への移転決定 1930(昭和5)年
 1月28日 関東大震災による駿河台校舎の被災に伴い検討されていた予科の移転先として、東京府下豊多摩郡和田堀町和泉新田火薬庫跡地約21,500坪を購入し、大学予科の校舎建設と運動場の設置を可決。
 なお、1916(大正5)年に設置した「明大駒沢運動場」は、明治薬学専門学校(現 明治薬科大学)に譲渡。
 
(16)  予科校舎(和泉キャンパス)開設 1934(昭和9)年
 11月1日 東京府下随一の予科校舎(約1,400坪)として「和泉キャンパス」開設。
 
(17) 八幡山グラウンドの開設 1937(昭和12)年
 7月 東京・世田谷区八幡山に約15,000坪の八幡山グラウンド(総合運動場)開設。
 
(18) 生田用地の購入及び明大プールの取得 1950(昭和25)年
 ア 5月 大蔵省所有の東生田の土地約25,000坪(旧登戸研究所跡地、購入前は大部分を慶應義塾予科校舎として使用)を購入し、生田校舎開設。
   ※ 現在では、生田キャンパス用地は約50,000坪に拡大
 イ 9月 東京急行電鉄(現 東急電鉄)から、1925(大正14)年に現在の世田谷区上野毛2-28に開場された「玉川プール(長さ50メートル、幅25メートル、10メートルの飛込台があり、当時としては世界水連が公認する日本唯一のプール)」の寄贈を受ける。その後一時、本学が「明大プール」として運営していたが、プールは取り壊され、跡地は東急自動車学校となった。現在は、世田谷区立二子玉川公園の一部となっている。
 
(19) 校友全員を会員とするための会則改正 1951(昭和26)年
 5月 校友全国総会を開催し、「校友全員を会員とする」主旨の会則改正を実施し、「会員制」を導入。
 
(20) 駿河台校舎に「零号館(旧小川町校舎)」竣工1956(昭和31)年
 2月 神田小川町3丁目22番地に駿河台校舎「零号館」が竣工し、文学部が臨時的に使用。
 
(21) 第1回全国校友代議員総会の開催 1953(昭和32)年
 3月 新会則による「全国校友代議員総会」を開催し、新幹事を選出。
 
(22) 駿河台校舎に新6・7号館が竣工 1958(昭和33)年
 5月 駿河台校舎大学院棟裏の元山脇服飾学園跡地に、地下1階、地上5階の新6・7号館竣工。
 
(23) 初代「校友会館」の実現 1960(昭和35)年
 9月 全国校友念願の初代「校友会館」が、駿河台校舎「零号館(旧小川町校舎、現 紫紺館)」の一部(1階約115坪)を改装して完成。
 
(24) 駿河台校舎に、5号館が竣工 1963(昭和38)年
 9月 駿河台校舎に、地上5階、地下2階のモダンな5号館が竣工。文学部と経営学部が使用。
 
(25) 和泉グラウンド用地の買収 1964(昭和39)年
 3月 和泉校舎に隣接した安田火災海上保険(株)の厚生グラウンド約5,455坪(現在の和泉グラウンド敷地)を買収。
 
(26) 校友会館に関連する「グリル問題」の解決 1969(昭和44)年
 3月 1966(昭和41)年1月に、校友会館グリル問題に並行して校友会本部役員が総辞職したが、その後、新会則による新体制の下、1969(昭和44)年3月の代議員総会において、円満に解決さる。
 
(27) 明治大学創立100周年記念全国校友大会の開催 1980(昭和55)年
 10月10日 「明治大学創立100周年記念」全国校友大会が、紀尾井町ホテルニューオータニで開催され、約1,500名が出席。校友会から、創立100周年記念事業募金に寄付される「一億円」の贈呈式も挙行。
 
(28) 駿河台ホテル用地と駿河台8号館用地との等価交換契約締結 1982(昭和57)年
 9月 かねて交渉中であった駿河台ホテル用地(現12号館敷地191坪)と8号館用地約186坪(アカデミーコモン北側の明大通り交差点角のビル敷地)との等価交換契約を締結。

(29) 校友規則制定100年記念祝賀会の開催 1983(昭和58)年
 5月29日 駿河台校舎において定時代議員総会を開催し、その終了後、紀尾井町のホテルニューオータニにおいて、「明治大学校友規則制定100年記念祝賀会」を開催。
 ※ 実際の100周年は、1982(昭和57)年12月
  
(30) 校友規則制定120周年記念式典の開催 2002(平成14)年
 11月30日 丸の内 東京会館ローズルームにおいて、「明治大学校友規則制定120周年記念式典」を開催し、225名が出席。
 
(31) 新潟県護国神社に、「明治大学戦没学徒忠霊殿」を建立 2006(平成18)年
 10月9日 校友会新潟県支部などの尽力により、「明治大学忠霊殿」を新潟県護国神社に建立。
 
(32) 向殿会長が就任時に提唱した「明治はひとつ」 2009(平成21)年
 7月26日、リバティホールで開催された定時代議員総会において、青木会長の退任に伴う後任の新会長として、現職の理工学部教授である向殿政男氏(昭和40工・東京都西部支部)を選出した。向殿新会長は、就任挨拶の中で、『明治はひとつ』をスローガンとし、「全員参加型」の校友会の構想を掲げて新生校友会をスタートさせた。このスローガンは、今日に至るまで校友会の目指すべき道筋を象徴するフレーズとして使用されている。
 
(33) 卒業生歓迎会を初開催 2012(平成24)年
 3月20日 校友会として駿河台キャンパスで三部構成(1)校友会卒業生表彰式(紫紺館)、(2)卒業フェスティバル(アカデミーホール)、(3)校友会ウェルカムパーティー(アカデミーコモン2階ビクトリーフロア)で初開催。
 
◎ 参考資料
1 明治大学校友会史 明治大学校友会発行 2019(平成31)年3月31日
2 明治大学校友100年の歩み—校友規則制定100年記念—
        明治大学校友会 校友規則制定100年記念事業委員会発行
                      1986(昭和61)年5月25日
3 世田谷区ホームページ
  関連リンク【玉川プール】
4 世田谷デジタルミュージアム【明大プール(玉川プール)】
5 明治薬科大学ホームページ