Go Forward

渋沢栄一と明治大学のアジア留学生支援(留学生編)

法科留学生記念写真(1923年)

 
2022.8
渋沢栄一と明治大学のアジア留学生支援
 
                        学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
阿部裕樹
 
 2021年は、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の影響により、渋沢栄一が注目を集めた1年であった。渋沢を「日本資本主義の父」と形容したのは、戦前の日本資本主義論争で論陣を張り、戦後の歴史学や経済学に大きな影響を与えた土屋喬雄(戦後は経営学部教授として明治大学で教鞭を執った)であるが(『渋沢栄一伝』改造社、1931年)、渋沢は実業家以外の面でも多くの業績を遺した人物である。そのひとつとして挙げられるのが、アジア留学生への支援活動であった。
 例えば、渋沢はアジア留学生支援のための組織である留学生同情会(1911年12月創立)と日華学会(1918年5月創立)に積極的にかかわっていた(『日華学会二十年史』、『明治大学百年史』第1巻、890~892頁)。留学生同情会は、特に辛亥革命前後にあって経済的に困窮する中国人留学生に対して学資の援助を行うことを目的に設立された。渋沢は同会の発起人として、実業家の近藤廉平、豊川良平らとともに参加した。同会が1912(大正元)年9月までに学資援助したアジア留学生は344名にのぼったが、そのなかには同年2月時点で49名の明大アジア留学生を確認できる(『明治大学百年史』第1巻、892~898頁)。
 日華学会は留学生同情会の資金を引き継いで設立された。『日華学会二十年史』には「渋沢子爵は本会創立以来一時会長の任に就かれた事もあつたが、全体を通じて顧問の地位に居られ、会務全般に亘り常に指導的努力を払われし事は、本会の最も感銘すべき処である」と記されている。初代会長には当時東洋協会会長で東洋協会専門学校(現、拓殖大学)校長を務めていた元文部大臣の小松原英太郎が就任し、渋沢以外の顧問には実業家の近藤廉平、豊川良平、当時東京帝国大学総長であった山川健次郎、自身がアジア留学生で清・中華民国政府で要職を歴任した江庸(当時中華民国留日学生監督)らが就任した。東洋協会専門学校や東京帝国大学がアジア留学生を受け入れていたことはいうまでもない。
 一方、明治・大正・昭和戦前期の明治大学は、受け入れた学生数から見てアジア留学生の主要受け入れ校のひとつであった。そのため、大学として、あるいは大学の役員や教職員が、留学生同情会と日華学会に深くかかわっていた。当時の校長・学長であった木下友三郎や富谷鉎太郎はもちろん、例えば日華学会創立当初の評議員には佐野善作と田島義方の名前がみえる。佐野は東京商科大学学長・同校教授を務めながら明治大学商学部の発足・発展に貢献した教員であり、田島は明治法律学校卒業後、現在でいう事務職員の立場で学校運営を支え、明治大学がアジア留学生の速成教育機関として設置した経緯学堂(1904~1910年)の幹事を務め、のちには大学役員である学監や理事に就任している。さらに、1927(昭和2)年8月創刊の日華学会機関誌『日華学報』に明治大学関係者の論稿・記事を見いだすこともできる。その代表格は、アジア留学生支援に尽力した師尾源蔵で、明治大学におけるアジア留学生受け入れの歴史についてまとめた「中華留学生と明治大学」(『日華学報』第3号、1928年)などを発表している。
 このように述べてくると、渋沢と明治大学はそれぞれの立場でアジア留学生支援にあたっていたように見えるが、実はこの時期の渋沢と明治大学には公式の繋がりがあった。それは、渋沢が明治大学商科大学評議員を務めていたことである。同評議員会は明治大学商学部の運営や教育に援助や助言を与える組織で、前掲の近藤廉平、豊川良平も同評議員であった。そして渋沢は、同評議員会の設置から廃止までの全期間(1911~1926年)にわたって同職を務めていたのである。もちろん、当時の渋沢の社会的立場を考えれば、同評議員は数ある肩書きのひとつにすぎない。しかし、明治大学史から見れば、この時期の渋沢が、1904年設置の明大商学部の発展を見守りながら、明治大学をはじめとする関係機関・個人と連携しながらアジア留学生支援にあたっていたことは、まぎれもない事実なのである。
 
参考文献
『日華学会二十年史』日華学会、1939年