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島岡吉郎監督と私(スポーツ編)

第29回全日本大学野球選手権大会優勝記念(1980年) ベンチでの島岡監督と筆者 筆者

2022.7 
島岡吉郎監督と私
 
明治大学史資料センター運営委員
関谷俊郎(学術・社会連携部長)
 
 2022年度東京六大学野球春季リーグ戦において本学硬式野球部が6シーズンぶり通算41回目の優勝を果たすことが出来た。
 これもひとえに皆様方の応援の賜物と、本学職員として、一野球部OBとして、深く感謝申し上げたい。
 なお、現在この優勝を祝して、博物館内の大学史展示室において、選手・スタッフのサインユニフォーム、色紙、ボールなどを、”頂戦”のスローガンを掲げて挑んだ名場面と共に、コーナー展示(2022年8月9日まで)している。是非ご来館いただきたい。
 前置きが長くなったが、今回、私の「白雲なびく遥かなる明大山脈」として本学硬式野球部の元監督「島岡吉郎」について書くこととしたい。
 「御大」の愛称で親しまれてきた島岡吉郎元監督は37年間に渡って本学硬式野球部の指導的立場にあり、東京六大学野球リーグ戦優勝15回、全日本大学選手権大会優勝5回、明治神宮大会優勝2回、日本代表チームの監督も務め日米大学野球選手権大会優勝2回の記録を残した。
 野球には全くの素人であったが、自ら寮に住込み、学生と寝食を共にし、野球のみならず生活面でも厳しく指導したことは周知のことと思うが、独自の「人間力」により、多くの優秀な卒業生を各界に輩出し、プロ野球界においても多くの人材が現在も活躍している。
 私の在学中(1979年から1982年)は、日本一に3度輝くなど勝つのが当たり前と言った黄金時代。監督もまだ60代後半の元気な時代であり、これらの結果は厳しい練習に裏付けられていた。
 夏は日の出とともに紺白戦(紅白ではなく紺白)がプレーボール。朝食後はバッティング練習、昼食を挟んで守備練習、夕食後には夜間練習と1日15時間を超える練習が当たり前の毎日であった。
 さすがの島岡監督も日陰でうたた寝、ふと目を覚ましては大きな声で「元気出せよ!」と一声かけてまた腕を組みながら寝てしまうということもしばしばであった。
 ある日の紺白戦。紺チームのキャッチャーの私がパスボール。御大がベースを掃くために常時背負っている竹ぼうきによる愛のムチが飛んできたのは言わずもがなだが、その場では、それほど怒られることはなかった。しかし、深夜にマネージャーに起こされ、「島岡監督が室内練習場で待っている」とのこと。慌ててユニフォームに着替え、室内練習場に向かったが、時すでに遅し。「パスボールした奴が呑気に寝ているとは何事か!今から合宿出ろ!」夜中に、リヤカーに身の回りの物を乗せ、近くの同級生のアパートに転がり込んだ。他にも500本のバント練習、1000球の投げ込みなど島岡伝説は数知れず。(詳しくはYouTube 広澤克己氏などが語っているので視聴いただきたい)。しかしながら、学生の就職にあたってはレギュラークラスだけではなく、出場機会に恵まれなかった選手たちのために、御大自らが企業に出向き、頭を下げて回るなど、学生たちに注ぐ愛情が裏打ちしているからであろう。誰一人として、御大を悪く言う人はいない。
 私にとっても御大は恩人の一人である。大学3年時の冬に父を亡くし、経済状況が厳しくなり、当時大学生と高校生だった弟2人の就学を優先し、大学を辞めて働くことを決意し、島岡監督に報告に行ったところ、「大学を辞める必要はない。お前の面倒は私がみるので心配いらないからしっかり野球を頑張って欲しい」と父親代わりとなっていただいた。今、私がここにあるのも御大のおかげといっても過言ではない。
 30年以上経っても語り継がれる「人間力」、温かさと厳しさの両方をもった、愛された“オヤジ”であった。