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松山千恵子-本学初の女性国会議員:「サラブレッド議員」の苦難とその超克(政治家編)

2022.11 
松山千恵子-本学初の女性国会議員:「サラブレッド議員」の苦難とその超克
 
明治大学史資料センター運営委員
小西 德應(政治経済学部長)
 
 本学出身女性の活躍は、法曹界でのものはしばしば注目されるが、政界でのそれはほとんど注目されてこなかった。そもそも日本では女性議員数も割合も少ないことが近年とみに指摘されている。2022(令和4)年3月の統計では、日本の女性議員の割合を第一院(衆議院)議員(9.7%)に限定して比べると、世界191カ国中で165位である。同年7月に行われた参議院議員選挙では女性議員が過去最多の35人(28%)当選し、非改選と合わせると64人となり、こちらも最多人数(26%)となった。だが第二院で数が若干増加したとはいえ、日本全体では地方議員を含め、女性議員の状況はほとんど改善していない。こうした国内状況も大きな原因であろうが、本学を卒業して議員になった女性は極めて少ない。とりわけ国会議員での少なさは顕著で、今日まで2人(ともに衆議院議員)しかいない。
 本学出身女性で初の国会議員(衆議院議員)となったのが松山千恵子である。1914(大正3)年に母の実家があった東京下谷、御徒町に生まれた彼女は、1935(昭和10)年に女子部法科を卒業した後、1960(昭和35)年11月に行われた衆議院議員選挙で当選し、計3期その任にあった。その松山は参議院議員の市川房江から「サラブレッド」と称された。松山の伝記『流れるままに 埼玉初の女性代議士松山千恵子の軌跡』(平松伴子著)に記されているエピソードによると、松山が女性国会議員の集まりに顔を出すと市川は「サラブレッドが来ましたよ」と紹介したという。サラブレッドと言わるのは、父親の松永東(はじめ)が戦前から弁護士であるとともに政治家として活躍し、衆議院議員、東京市議会議長、戦後は衆議院議長や文部大臣を歴任していることに加え、夫の松山義雄は弁護士で、埼玉県副知事、衆議院議員を務めた経験を有していたからである。
 このように見ると「サラブレッド」と呼ばれる理由がわかるが、松山千恵子が議員となるまでには多くの苦難と曲折があった。ここでは幼少期の家庭問題での苦労には触れないが、父親は衆議院議員になるまでに2度の落選を経ていただけでなく、戦前の翼賛選挙で当選していたことから戦後は公職追放になった。それにともない、千恵子の夫がその身代わりとして立候補したがこちらは落選が3回続き、大学時代の友人が埼玉県知事になることに尽力したことをきっかけに同県副知事を経て、前年に追放解除となっていた義父の松永東(埼玉1区)とともに、1952(昭和27)年に埼玉2区で当選した。その後は父親と夫はともに当選を重ねたものの、58(昭和33)年に夫が病死してしまう。そこで地元2区からの要請を受けて妻の千恵子が立候補したのだった。
 じつはその初当選も、その後の経歴も波乱に富んだものであった。1960年に池田内閣の下で行われた選挙の際には、夫の支援者であった佐藤栄作が自身の秘書を同じ埼玉2区で立候補させただけでなく、その元秘書が「女はダメだ」との運動を展開した。父親の友人である河野一郎の仲介で最終的に公認を得たものの、当初、自民党は公認候補とはしなかった。この選挙では2位と僅差で3位となり、父親とともに当選を果たすことができた。1963(昭和38)年選挙でも3位で当選したが、67(昭和42)年の「黒い霧」選挙では落選した。続く69(昭和44)年の総選挙では、父の死去に伴って立候補した弟の松永光(のち、文相や蔵相などを歴任)とともに当選(3位)した。72(昭和47)年選挙で再び落選したことで、政界を引退した。波乱万丈の末に誕生し、目まぐるしく変わる政治状況の中で活躍した「サラブレッド議員」だったのである。
 議員在職中は一貫して社会労働委員会に所属し、児童福祉手当拡充など各種の福祉問題に取り組んだ。そうした活躍が評価され、2回目の当選を果たした後の66(昭和41)年に厚生政務次官に、69(昭和44)年には自民党婦人局長に、そして返り咲きの3選を果たした後の71(昭和46)年には郵政政務次官となった。自伝には議員をあと1期やれば史上2番目の女性大臣だったかもしれないとの中曽根康弘元総理の言葉が寄せられている。
 引退後の1984(昭和59)年に勲三等宝冠章を授与され、2015(平成27)年に100歳で死去した。