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金メダリストの留学生・孫基禎(留学生編)

 2023.2
金メダリストの留学生・孫基禎

明治大学史資料センター運営委員
山下達也(文学部准教授)

 戦前期、明治大学に留学した人々の中にはオリンピックで金メダルを獲得した人物がいる。1936年、ベルリンオリンピックに日本代表選手として参加し、マラソンで金メダルを獲得した孫基禎(1912-2002)である。孫が日本代表の選手として出場したのは当時、朝鮮半島が日本の植民地統治下にあったがゆえである。
 孫基禎が金メダルを獲得した当日のレースについて簡単に紹介しよう。1936年8月9日、焼けるような太陽のもとにスタートした56人の選手たち。スタート後、メインスタジアムの外に出た時点で孫は22位であった。6キロの地点では5位に順位を上げ、その後、上位の選手との争いを繰り広げる。折り返し地点をイギリスのアーネスト・ハーパー選手とともに2位3位で通過した孫は、29キロ地点でアルゼンチンのジャバラ選手をハーパー選手とともに抜き、31キロ地点で並走していたハーパー選手を引き離して首位に立つ。首位に立った孫はそのまま優勝。孫の記録(2時間29分19秒)は当時のオリンピック記録であった。また、孫とともに「日本選手」として出場した南昇龍は2時間31分42秒の記録で第3位となった。
 競技終了後に行われた表彰式では、優勝した孫基禎と第3位となった南昇龍がやはり「日本選手」として表彰された。
 しかし、世界でトップに立ったことを称えられる場であるにもかかわらず、孫と南はそこで喜びを表現することはなかった。自分の走りによって日章旗が掲げられ、「君が代」が流されることに対する2人の感情が表彰式の彼らの沈痛な表情によくあらわれている。これは2位のハーパー選手がユニオンジャックを誇らしげにまっすぐと見つめる表情とは対照的なものであった。
 同年8月25日、孫基禎の優勝を報じた『東亜日報』は、表彰式に臨む孫の胸に付けられていた日章旗を黒く塗りつぶした写真を掲載した。これに関わったとされる編集者、記者は逮捕され、8月29日をもって『東亜日報』は無期限の発行停止処分とされた。いわゆる「日章旗抹消事件」である。
 金メダルを獲得した孫は、その翌年に日本へ留学する。その時、留学先の学校として選んだのが明治大学であった。1937年に専門部法科に入学し、1940年には留学を終えて帰国した。1945年の解放後は指導者、韓国の陸上競技連盟副会長、ソウル特別市陸上競技連盟理事長、ソウルオリンピック大会組織委員会委員などを歴任し、2002年11月15日90歳で逝去した。2011年には大韓体育会によって「大韓民国スポーツの英雄」に選ばれており、現在では毎年韓国で「孫基禎平和マラソン」が開催されている。
 なお、明治大学からは1995年に特別功労賞が贈呈されているほか、2012年6月9日には、孫基禎生誕100周年シンポジウム(「スポーツを通した国際相互理解という真のオリンピック精神を体現したヒーロー・孫基禎生誕100周年シンポジウム『平和への道』」)が、明治大学と日本大韓民国民団中央本部の共催で開催された。

【参考文献】
  ● 강형구『손기정이 달려온 길』서울셀렉션、2004年。
  ● 明治大学大学史資料センター編『明治大学小史 人物編』学文社、2011年。
  ● 山下達也「資料紹介『孫基禎が駆けてきた道』について」、明治大学史資料センター『大学史紀要』第26号、2020年、145-161頁。