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阿久悠とお茶の水の風景(文化人編)

阿久悠『最後の楽園 瀬戸内少年野球団・青春編』(光文社文庫)表紙 御茶ノ水駅ホーム上から見える現在(2022・11)の聖橋の佇まい

2022.12
阿久悠とお茶の水の風景

明治大学史資料センター運営委員・阿久悠記念館運営責任者
冨澤 成實(政治経済学部教授)

 本学の校友である作詞家・阿久悠(1937~2007)の長編小説『最後の楽園 瀬戸内少年野球団・青春編』(1986・8、光文社文庫)には、お茶の水の風景が描かれている。

 いつもの習慣で、プラットホームに足を降ろすやいなや首をねじ曲げてふり仰ぐと、線路と神田川を跨(また)いでいる聖(ひじり)橋が、白の多い油彩画の、たとえばユトリロの風景のように見えた。
 壮介は、お茶の水の風景が好きだった。
 同様に、駅から駿河台下にかけての幅広い坂道も気に入っていた。M大はその坂の途中にある。

 現在の聖橋は駅舎の建て替えにともなって置かれた建築資材に邪魔をされて一部分しか見ることができないが、本来の、神田川に架かる優美な姿が髣髴と脳裏によみがえる一節である。いまから66年前の1956(昭和31)年、大学生の主人公・櫟壮介(いちい・そうすけ)は、ホーム上から見える聖橋と駅から続く幅広の坂道という、お気に入りの佇(たたず)まいを眺めながら、目的地であるM大に到着する。しかし、真っ先に立ち寄った就職課の窓口には、彼と同様にアルバイト先を求めて多くの学生が列をなし、そのなかからは「今日駄目なら、血を売らなければならない」などという溜息まじりの吐露さえ耳にする。駅からの道のりでえた甘美な陶酔感も、貧しげな現実を前にたちまち消失してしまわざるをえない。
 作者の阿久悠(本名:深田公之(ひろゆき))は、1955(昭和30)年に故郷の淡路島を離れて単身上京し、1959(昭和34)年までの4年間の学生生活を神田駿河台の明治大学で送った。自分自身の半生を記した『生きっぱなしの記 私の履歴書』(2007・12、日経ビジネス人文庫)によると、両親から淡路島について「お前の住み場所は無い」とつねに言われていた高校生の彼は、水平線の彼方にあるはずの「東京」を見つめ、そして「国電中央線の御茶ノ水駅で降り、駿河台の坂を下って、明治大学の正門をくぐった」。高校時代からの「テーマ」であった「東京」で「二十歳までには世に出てやる」と密(ひそ)かに意気込む一方で、駿河台や神保町はもとより、浅草や新宿、上野などの映画館や貸本屋、寄席、ジャズ喫茶などに足繁く通いながら、彼自身「積極的にどう変身したいかもわからないままに」気怠(けだる)い日々を送ってもいた。また作家を夢見ながらも「習作の一本も書いたことがな」かった彼は、「父の退職金と恩給の中から、月々に一万円の送金を受けて」いたわが身を振り返ってか、教育実習を終えたとき、両親の暮らす「宮崎で先生をやるのもいいかもしれない」という、半ばリップサービスのハガキを母親宛に投函しもした。大学生の彼の前に広がる現実は、重苦しくあった。
 『最後の楽園』は壮介の初恋の女性・二宮菜木(にのみや・なぎ)との再会と別離を描いた物語である。8年ぶりに過ごした彼女との短い時間が結局は儚(はかな)い「楽園」であったように、大学生の深田公之が見つめた絵画のようなお茶の水の風景は、下宿先と大学との行き来の束の間に、ほんの少しだけ身を浸すことのできた、それだけになおさら、かけがえのない楽園であったのではないだろうか。

【付記】 本稿は科学研究費補助金(令和4(2022)年度 基盤研究(C)課題番号 22K00496)による研究成果の一部である。また本稿を執筆するにあたり、明治大学史資料センター研究調査員の村松玄太さんから貴重な助言をいただいた。