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明治大学(明治法律学校)の校友・校友会に関する歴史・由来(その2)(校友会編)

明治法律学校の発祥の地 旧肥前島原藩上屋敷の所在地 (江戸時代後期の古地図) 明治法律学校の開校(数寄屋橋キャンパス)当初の想像図  ※開校時の写真は1枚も残されておらず、創立70周年記念のときに想像図として作成された。 明治大学発祥の地記念碑所在地  東京都千代田区有楽町2-2(数寄屋橋公園付近)  ※皇居に隣接する都心の有楽町の中でも一等地に設置されている。同記念碑の設置場所は、 元江戸城のお堀の埋立地である。

 2023.2
明治大学(明治法律学校)の校友・校友会に関する歴史・由来(その2)

明治大学史資料センター運営委員
岩﨑 宏政 (大学支援部校友連携事務長)

 このたび、昨年5月に掲出したコラムの続編として、明大生は元より特に校友の皆さんに向けて、明治大学(明治法律学校)の校友・校友会に関する歴史・由来(その2)を執筆したのでご覧いただきたい。 
 
 1 明治法律学校の開校と駿河台への移転
  1881(明治14)年1月17日、東京府麹町区有楽町三丁目一番地(数寄屋橋内旧島原藩邸「三楽舎跡」)に開校し、この日から授業が開始された。創立(創業)者は、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3名であった。 開校時の生徒数は、44名であった。
 開校時の校舎は、前身が肥前国島原藩第8代藩主だった松平忠和(第15代将軍徳川慶喜の異母弟)の江戸上屋敷だったことから、皇居(江戸城)からも至近距離の東京の中心地に所在していた。
 その後、明治法律学校の評判の高まりに伴う学生数の急増により、開校5年後の1886(明治19)年12月、駿河台南甲賀町校舎(現 日本大学病院敷地の一部)に、創立30周年の1911(明治44)年10月、現在の駿河台キャンパス(旧小松宮彰仁親王の邸宅)に移転を重ねてきた。よって、2023(令和5)年は、現 駿河台キャンパス開設112周年に当たる。
 
 2 明治大学の建学の精神
(1) 権利自由
 「明治法律学校設立ノ趣旨(※明治初期創業の私立法律学校の設立趣意書の中で最も格調の高い名文として知られている。)」において、法律の範囲と効用について具体化した記述となっている。
 
【当該部分現代語訳】
 法が対象とする領域は広範で、挙げればきりがないほどである。大きなところでは、社会の構成・政府の組織、小さいところでは人民各自の権利自由である。人類社会の文明を開き、国運の進歩を図る者は、法学以外の何処に求めることができるだろうか。
 
(2)  独立自治
 「独立自治」は本学の建学の理念の一つとされているが、これが建学の精神として確認される具体的な契機は、明治法律学校が開校して「中興」期を向かえた1899(明治32)年9月から、校友会の見直しによる「本部・支部体制の強化方針」に沿って、本部から支部総会への出席を決め、本部と地方校友との密接な連携に資する手段として機関紙「明治法学」を発刊したことである。
 
◎「明治法学の発行」
 明治法学の発行は、判例調査し法制担当者及び学者の利便に供するものであるが、一方では校友相互間及び学校と校友との密接な関係を築くことを目的とした。要するに、校友こそ権利思想の普及と自主独立の建学理念の確認と、その主張の先兵だと岸本校長は述べているのである。明治法律学校のこの点に関する新方針は、第一に明治法学を発行し、思想普及に便ならしめること、第二に講師校友の巡回演説会の導入であり、第三に全国に校友支部を設置し、地方人士を啓発(講和会、雑誌発行、学校設立)することを期待するものである。
  
 また、「明治法学」は、新聞の社説に相当する「会説(創立者の公的主張欄)」を持っており、ここでは社会一般に向けての学校当局の主張が掲載されていた。この欄は、1902(明治35)年7月第44号から設けられたが、翌1903(明治36)年8月の専門学校令による「明治大学への改称」に向けた明治法律学校の基本的主張がこの欄で展開されていた。
 この「会説」での基本的主張は、明治30年代初頭の法律社会への警鐘として、今日こそ「学問の独立」を主張する私学の必要な時で「私立大学は国民の大学」であらねばならないこととした。
 さらに1903(明治36)年6月には、「私立大学天職論」が展開され、「私立大学の精髄は学問の独立に在り、私立大学の天職(中略)特立独行の人士の養成」 にありという。まさに「独立自治」精神の養成を語っているのである。

3 校友と校友会
(1) 校友の成立過程
  ・ 1881(明治14)年1月   「校友」の名称誕生【明治法律学校規則第4条】(注)
  ・ 1882(明治15)年10月   校友発生 【第1回卒業生 19名】
  ・ 1882(明治15)年12月 「校友規則」制定【沿革誌】「校友」名称制度化
  ・ 1884(明治17)年1月     校友への新年挨拶【新聞広告】
  ・ 1885(明治18)年2月     校友機関紙「明法雑誌」の発行【同誌第1号】
  ・ 1885(明治18)年4月     校友総会(第1回)開催【同誌第17号】
  ・ 1886(明治19)年5月     校友規則第3章に「校友会則」が独立して規定され、校友会正式に発足
                                                【同上】
  ・ 1899(明治32)年7月   校友規則を改正し、「校友会則」を独立制定。
                                                校友会本部を本校(南甲賀町校舎)に設置し、地方の校友組織
                                                「校支会」を「校友会支部」に改称し、全国各府県への設置決定

(注) 学校開校時の1881(明治14)年1月と印刷された、現存する最古の「明治法律学校規則」第1章総則第4条に、「卒業証書を有する者は、いつまでも校友の身分を有する」との記載がある。これを正しいとすれば、「校友」の名称は、開校時に既にあったことになる。
 
(2) 「校友」及び「校友会」の早期成立の意義
 国家や宗教界のような後援団体などの組織的裏付けを持たないまま創立された明治法律学校は、創立当初から自立のための仲間組織を必要とした。そのため設立趣旨にある「同心協力」の精神の下で「校友」制度を生み出し、教師のみならず、学生、卒業生もその仲間となった。(この「仲間」という意識から、師弟関係ではなく、同士としての「校友」という名称を生み出したと思われれる。)
 
 このような背景の中で私立学校として開校し、市民的近代化を目指すために開校した明治法律学校は、学校継続に向けての協力要請先として、まず「学生」「卒業生」を真の相手に選んだ。
 単なる財政的協力論ではない。いわば、建学理念の継承発展への協力論であり、設立趣旨の「同心協力」論は、そのように理解すべきもので、結果的には、法律思想の普及という社会改良の同志育成のための組織論であった。
 
(3) 校友総会(校友会)のルーツ
 校友総会(校友会)とは、1881(明治14)年の開校以来、毎年1回開催されていた「大懇親会」が、学生中心の運動会(飛鳥山)と分かれて独立したものであった。
 1886(明治19)年5月30日に開催された総会において、校友会則の起草委員5名を選出し、同年6月27日開催の総会で草案審議を行い、可決制定された。
 それまでの「校友規則」の内容とは異なり、新たに校友会とその運営体制の具体化に関する規定が整備された。【校友会の正式な発足】
 
(4) 校友会支部の設置
 1899(明治32)年9月始業式における岸本校長による「開講の辞」において、「1881(明治14)年1月の数寄屋橋での開校時からこれまでを第一期とすれば、これからは中央(東京)から地方へ法学の普及を実施すべき第二期に相当する。そのため地方に散在している校友を組織化し、法学の地域開化を先導することが先人としての校友の務めである。」との期待を表明した。
◎ 校友会支部のルーツ?
 明治法律学校における地方支部の歴史では、1889(明治22)年に横浜に「同窓会」と称する校友団体が設立されたのが最初であるという。
 会員は少なかったが、毎月1回の会合を開催しており、これが基礎となって、1895(明治28)年6月に「神奈川県校友支会」として、明治法律学校の校員会議で正式に認可され、1899(明治32)年7月に「神奈川県支部」となった。
 
4 戦後、校友総会から全国校友大会へ
(1) 戦前の全国規模の校友会行事「校友総会」から「全国校友大会」へ
 2019(令和元)年10月の全国校友千葉大会で55回目の開催となった「全国校友大会」は、1954(昭和29)年3月、福岡市・平和楼で開催されたのが最初と記録されている。(ただし、下の※参照のこと。)それ以前は、全国規模の校友会行事としては「校友総会」が開催されていた。
※ 上記の開催日・会場については、全国校友大会一覧表(別編)では、開催日を3月12日としているが、明治大学新聞では5月30日と伝えており、また会場は「平和楼」ではなく「大博劇場」となっている。昭和20年代の関係資料が少ないため断言はできないが、「明治大学新聞」の記事の方が正しいと思われるとのこと。
 
(2) 当時の校友会の課題
ア 会則の改正による「会員制」の導入
 1951(昭和26)年5月、校友総会を開催し、「校友全員を会員とする」ことを主旨とした校友会則を改正し、「会員制」を導入し、校友であり会費を納入した会員の組織体となった。この狙いは、校友全員が会員となるという理想の下、これによって戦時中整理されなかった校友の現況を把握し、併せて納入された会費を校友会活動の財源とすることにあった。
 
イ 大明治建設計画に伴う「大量入学問題」に起因する社会的評価の失墜からの回復策➡ 「専教連改革」
 一方大学では、戦後の大学復興策として策定された「大明治建設計画」の推進のための資金調達、つまり学費収入の大幅な増収(定員を大きく上回る入学者の受入れ)を目指した経営論理によって、1952(昭和27)年から1955(昭和30)年にかけて発生した「大量入学問題」に起因する明大の社会的評価の失墜(不正入学者の一部による破廉恥事件、暴力事件等)からの回復が喫緊の課題であった。
 その後、1953(昭和28)年11月に従来の教授懇談会を母体として「専任教授連合会(専教連)」が結成され、これが1955(昭和30)年には、理事会に対し、経営と教育の分離を中心とする寄附行為の改正を要望した。
 
ウ 校友会館の建設
 校友会の発展を目的として、全国各支部との連絡拠点となる「校友会館」の整備を企図し、校友会の予算において、1951(昭和26)年度に100万円、27年度及び28年度に400万円ずつその建設資金の積立を行っていた。
 
5 会則の改正による「代議員総会」の開催
 専教連改革後の1956(昭和31)年6月、会則の改正(最高議決機関としての代議員総会の導入)を行い、翌1957(昭和32)年3月に、第1回校友代議員総会を開催し、新幹事を選出した。
 また、校友会の執行機関として位置付けられた幹事会は、任期4年の幹事によって構成された。ただし、2年ごとに半数が改選される仕組であった。
 
 その後、1966(昭和41)年3月に、主な改正点として現行の「会長・副会長」制を導入した新会則が大学から認可され、施行された。1956(昭和31)年の会則にも「名誉会長」に係る条文はあったが、この新会則で定めた会長は、「第11条会長は、本会を代表し、会務を総括する。」という、名実を備えた会長職であった。
 この新会則により初代会長に選出されたのが、1934(昭和9)年から明治大学専務理事を務め、また、現在の顧問弁護士事務所である「名川・岡村法律事務所」の第2代所長を務めた「名川保男」である。
 この名川保男会長の就任の背景には、【校友会グリル問題】に関連した1966(昭和41)年1月の校友会本部役員の総辞職があった。
 
◎ 参考資料
1 明治大学校友会史 明治大学校友会発行 2019(平成31)年3月31日
2 明治大学校友100年の歩み—校友規則制定100年記念—
        明治大学校友会 校友規則制定100年記念事業委員会発行
                      1986(昭和61)年5月25日