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高倉健と小田剛一(文化人編)

昭和20年代の3代目(旧)記念館

2023.3
高倉健と小田剛一

明治大学史資料センター運営委員
松下浩幸(農学部教授)
 
 戦後の日本映画界は1958年に観客動員数11億人強を記録し、さらに1960年には史上最多となる547本もの映画が製作され全盛期を迎えた。だが、1953年に開始されたテレビ放送が、1960年代になるとその影響力を加速させ、その結果、映画の観客動員数はピーク時の半分以下にまで落ち込む。そのように映画とテレビの力関係が入れ替わる1960年代後半、低迷する映画界の流れとは反比例するように人気を博した俳優がいた。高倉健である。高倉が主演した「弱気を助け、強気を挫く」一連の任侠映画は、60年安保以降の学生たちの反体制運動と共鳴するかのように、若者からも熱狂的な支持を得た。
 高倉健(本名:小田剛一〔たけいち〕)は1931(昭和6)年、福岡県中間市に炭鉱の労務管理者であった父と、教員をしていた母との間に生まれる。そこは「川筋」と呼ばれる気性の荒い土地柄だったが、読書好きだった高倉は、旧制東筑中学から新制の福岡県立東筑高等学校へ進み、戦後の開放的なアメリカ文化に触れる中で英語に興味を持ち、高校ではボクシング部とESS部を創設する。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、家に遊びに行く中で磨きをかけたという。そして1949(昭和24)年、その語学力を活かし、貿易商になることを目指して明治大学商学部へと進学する。
 相撲と縁の深かった父親のすすめもあり、大学の相撲部のマネージャーを1年間務めたが、放蕩生活を続けるうちに、渋谷界隈では「明治の小田」という一目置かれる存在だったという。無事、卒業はしたものの、仕事はなく、大学時代の知人の伝手で、何とか芸能プロダクションのマネージャーになるため喫茶店で面接を受ける。ところが、そこに偶然居合わせた東映の映画プロデューサーによってスカウトされ、すぐさま「高倉健」としてデビューすることが決まった。しかし、しばらくは鳴かず飛ばずの時期が続き、ようやく先の任侠映画で人気に火が付く。
 やがて、そのあまりの人気のために異口同音の映画をくりかえし撮り続けるという生活に疑問を抱き、東映をやめて独立をした後は、自分の心に響く作品だけを選んで出演するようになる。任侠映画からヒューマンドラマへとその役柄は変わっていったが、ストイックに役に向かうその姿勢から、高倉は多くの映画人があこがれる存在となっていく。日本を代表する俳優となった後も、常に自らを律し、誰に対しても礼儀正しく謙虚に振る舞った。一緒に仕事をした監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は、高倉が働くスタッフに遠慮して、休憩の時でも椅子に一切座らず立ち続けていたことや、中国人のエキストラにも丁寧に挨拶をする姿を見て、「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」とその驚きを口にしている。
 そんな高倉は俳優として世界中を飛び回り、さらに私生活でも時間を見つけては一人で海外へ出かけた。「役者の生き方が芝居に出る」という高倉は、常に心を震わせてくれる対象を探すことを大切にし、晩年、文化勲章を受章した際に、次のようなコメントを残している。「……大学卒業後、生きるために出会った職業でしたが、(略)「辛抱ばい」という母からの言葉を胸に、国内外の多くの監督から刺激を受け、それぞれの役の人物の生きざまを通して、社会を知り、世界を見ました。映画は国境を越え言葉を越えて、“生きる悲しみ”を希望や勇気に変えることができる力を秘めていることを知りました。……」
 映画は国境を越え、さらに言葉さえも越える……。それはまさに高倉健こと小田剛一が、国境を超えて仕事をするために貿易商になることをめざし、明治大学に入学してきた頃の志(こころざし)の延長上にある。映画俳優・高倉健の心には、若かりし頃に国境を超えることを夢見た青年・小田剛一がつねにいたのである。