Go Forward

「船成金」と呼ばれた海運王山下亀三郎—その2. 「山下独特の天稟」ー(財界人編)

初めての新造船吉田丸5870トン(1917年建造。模型 吉田高校所蔵) 軽井沢で馬上の山下(1934年。栃木でのマンガン買入れの鉱山巡りで乗馬を覚えた。西予市宇和先哲記念館所蔵) ソウル空港で出迎えられる山下(1944年。行政査察使としての訪問か? 吉田高校所蔵)

2023.3
「船成金」と呼ばれた海運王山下亀三郎 その2. 「山下独特の天稟」

明治大学史資料センター研究調査員
白戸伸一
 
 今回は、山下汽船の経営的発展を確認しながら経営者としての山下の特徴を素描しておこう。
前回紹介した福澤桃介は、山下の海運業界での成功について次のように述べている。すなわち、「山下は余り学問がない。又事業経営に卓絶せる頭脳を持ってゐるとも思へないが、どんな人間でも使ひこなす腕を持ってゐると見江(みえ)て配下には随分有為の人物がゐる」と評している(福澤桃介「財界人物我観(続) 山下亀三郎」(『経済雑誌ダイヤモンド』1929.8.21))。あるいは、「山下は‥世界で一二を争ふ船舶王になり終せた。これには種々の原因がある。欧洲戦争といふ千載一遇の景物もその一つであれば、人を上手に使ひこなす山下独特の天稟(てんぴん)も原因の一班をなしてゐる。けれども一口にいへば、要するに彼がマメでよく動くからだ」と(同前(『経済雑誌ダイヤモンド』1929.9.1))。「天稟」とは生まれもっての才能のことである。福澤は山下の人材育成・登用の才を「山下独特の天稟」と高く評価したのである。そしていく人もの人名をあげ、郷里の尋常小学校のみ卒業の小僧や帝大・高商卒のエリートが、やがて経理・営業畑や海外支店で活躍して山下汽船を国際的海運企業へと押し上げたことを指摘している。
 そのような例を挙げると、郷里の喜佐方村村長から見所があると託された白城定一は、義務教育を受けたのみの小僧任用であったが、借金に苦しむ日露戦後の経営難に「菱形償却法」という年賦償還方法を工夫し窮地を救い、シンガポール支店長、そして専務まで出世している(のちに郷里より衆議院議員に選出されている)。東京高商(現一橋大学)出身の高野進は1912年にロンドンに派遣され、ヨーロッパ市場や海上保険の情報を持ち帰っている。京都帝大卒の田中正之輔、内藤正太郎等は支店長、常務等の要職を占めたが、いずれも大正・昭和初期の事業拡大に貢献した。
 大正・昭和戦前期の日本の海運業界では、三菱系の日本郵船、住友の総理人広瀬宰平が主導して結成された大阪商船、財閥系総合商社傘下の三井物産船舶部などが有力であったが、貨物の海上輸送では第一次大戦期に山下汽船が事業規模を飛躍的に拡大して上位に食い込んでくる。また、第一次大戦後の反動恐慌や昭和恐慌期には赤字経営に陥る困難な時期を経験しながら、1934年以降には大幅に事業を拡大し第一次大戦期をはるかに超える利益を上げている。これを数字の上で表すと、自己所有の社船や資本関係のある準社船と他社所有の傭船・受託船を合わせた運用船舶は、第一次大戦前の12隻・載貨重量4.4万トンから1922年には109隻・同47万トン、1935年には28隻・同24万トン、1940年には113隻・同88万トンへと推移している。第一次大戦期に運用船舶が急増するものの戦後の不況や昭和恐慌により大きな打撃を受け、さらに海運業以外へ多角化を図ろうとする山下と袂を分かった一部有力社員の離反で打撃を被るが、金融機関の船舶運航資金支援や政府による海運業助成政策もあって、国内外の268ヶ所に支店・代理店・現地法人等のネットワークを広げ、1930年代にはペルシャ湾やインドに定期航路を開設し、アフリカやニュージーランド、そしてニューヨーク・南米にも果敢に外国航路を開拓したことで1930年代後半より業績を大きく伸ばした。
 さらに1936年には海軍の50万トンのタンカー確保要請に応え、1万3000トン級の大型タンカーを完成させ、のちに航空母艦の補給船として真珠湾攻撃にも参加するなど、戦線拡大とともに大多数の船舶が軍に徴用された。その結果、敗戦時には80隻・60万トンを喪失し、残ったのはわずかに16隻・9.7万トンという状態だった。
 ところで、福澤も指摘しているように山下の企業家としての成功は人材育成・人材登用の「天稟」ばかりではなく、本人の「マメ」な行動力と交渉力も大きく関わっていた。福澤は、「商賣(しょうばい)と社交を問はず、二十日鼠の様に常に活動し」、「山下ほど、貴賤貧富の別なく上下を通じて交際の廣い者は、先づない」と指摘している。山下本人が語った『沈みつ浮きつ』(1951年 四季社)には伊藤博文や山縣有朋等の元老や田中義一や後藤新平等の有力政治家、渋沢栄一を筆頭に多数の実業家が登場しているが、そのことは山下の交際範囲の広さを示しているだろう。なぜそれほどに多くの人々との接点が生まれるのか。この点についても福澤は、彼の行動力に加えて「山下はウヰットに富み、応接談話に人をチャームすることが上手」であり、話が面白いので本人は茶事を解さないにもかかわらず茶席に招かれると語っている。ただ、時間を空費するのを嫌って途中で腹痛を理由にさっさと引き揚げるので、茶人仲間から「亀サンの腹痛」と呼ばれていることも紹介されている。この話から山下のビジネス上の交渉力をストレートに結論づけるのは困難ではあるが、相手に十分興味を抱かせる人物であったことは想像できるだろう。
 晩年、山下は東条首相より内閣顧問を要請され、1943年9月には、海運の現状と増強策について天皇に「ご進講」する機会もあった。さらに病躯を押して海運増強のための行政査察に赴き、1944年に不帰の人となった。
                           
 参考文献:山下亀三郎『沈みつ浮きつ』1951 四季社、内橋克人『破天荒企業人列伝』1983 新潮文庫、山下新日本汽船株式会社社史編集委員会『社史 合併より十五年』1980 山下新日本汽船株式会社、宮本茂『トランパー 伊予吉田の海運偉人伝』2016 愛媛新聞サービスセンター