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文官高等試験行政科を突破した女子部卒業生 渡辺美恵 -女性の労働問題・人権問題をライフワークに-(校友編)

第七回明治大学女子部卒業式「答辞」(卒業生総代 渡邊美恵) 「女性初の高文(行政)合格 女子部卒渡邊さんの殊勲」『明治大学新聞』第494号(1941年10月17日)

2023.5 
文官高等試験行政科を突破した女子部卒業生 渡辺美恵
-女性の労働問題・人権問題をライフワークに-
 
学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
古俣達郎
 
 明治大学専門部女子部(1929[昭和4]年設置)は日本初の女性弁護士である中田正子、三淵嘉子、久米愛の3名をはじめ、日本初の女性裁判官石渡満子、日本初の女性高等裁判所長官野田愛子、日本初の女性司法研修所教官・地方裁判所長の寺沢光子など、法曹界で「日本初」となる卒業生を数多く輩出したことで知られている。他方で、女子部の卒業生の中には、法曹界以外の領域や分野で足跡を残す卒業生がいたことも注目される。
 今回紹介する渡辺美恵は女子部及び法学部を卒業後、戦前期の高等文官(いわゆる高級官僚)の登用試験である文官高等試験(高文)行政科を合格した初めての女性で、女性行政官の先駆けの一人である。
 
 渡辺美恵は1917(大正6)年5月23日、大分県大分郡谷村筒口(現・大分県由布市狭間町筒口)で生まれた。幼くして父を亡くしたため、母一人、姉一人の女性だけの家庭であったという。郷里の大分県立第一高等女学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を卒業後、1935年、明治大学専門部女子部(法科)に入学し、1938年に女子部を卒業、優秀な成績を収めた渡辺は卒業式で総代として答辞を述べている。女子部卒業後は同じ明治大学の法学部に進学、1941年に法学部も卒業した。
 明治大学卒業後、同郷の金光庸夫前厚生大臣の世話により、厚生省労働局に雇(やとい)として雇用され、文官高等試験行政科合格が発表されたのは、労働局勤務中の1941年10月のことであった。渡辺が女子部の先輩たちが志した司法科ではなく、行政科を志望したのは、病気で商工省事務官退職を余儀なくされた義理の兄のため、との噂もあったが、本人はこの点について、「〔行政科を志望した理由は〕漠然とですわ、先日、法廷に立つた女弁護士久米愛子(原文ママ)さんは二年先輩です、私は五ツのときに父を亡ひ、母の手で育てられはじめは医科にゆかうと思つたのですが、横道にそれたのです」と語っている(「女性初の高文パス “お医者志願が横道” の渡辺さん」『読売新聞』1941年10月15日)。合格後、労働局労務官室に官吏として正式に配属となり、翌年には労務監督官補(判任官)となった。
 しかし、その後、女性行政官の待遇の検討が遅々として進まなかったようで、秘書課長との交渉で、奏任官以上の高等官に採用される見込みは薄いということがわかり、1942年9月に厚生省を退官した。高文合格から一年足らずのことであり、最初の任官は極めて短期間であった。退官後、労働科学研究所(大日本産業報国会の下部組織)の生産力増強労働班として工場生産の研究を行っていたが、同研究所も1944年に退職し、戦争末期には大分に帰郷、海軍第12海軍航空廠(大分市)に事務嘱託として勤務していた。
 
 終戦まもない1946年、渡辺は再び上京し、文部省(学校教育局)に採用された。戦前、官僚組織で苦汁を飲まされながらも、再度の任官を志して東京へと戻ってきたのは、戦後の新たな民主主義的理念、そして、その象徴であり、個人の尊厳と男女平等を謳った新憲法(日本国憲法)の存在が大きかったのではないだろうか。同時期には母校の明治大学短期大学部(女子部の後身)でも教鞭を執り始める。
 そして、渡辺にとって大きな転換点となったと考えられるのが1948年、労働省婦人少年局への転任である。前年の1947年、労働省(現・厚生労働省)は女性や年少者の労働実態の調査を実施し、各種の社会的・経済的政策を立案する組織として婦人少年局を設置、同局の初代局長には戦前から女性運動のリーダーであった山川菊栄が就任した。渡辺の着任当時、婦人少年局は、山川の強力なリーダーシップのもと、1928年に内務省で女性初の事務官に就任した谷野せつが課長を務め、女性・年少労働者の正確な労働実態調査の実施等を目的に、各都道府県に女性職員だけの地方職員室を配置し、女性や年少労働者の労働・職業をテーマとした講習会を開催するなど活発な活動を展開していた。婦人少年局時代の渡辺は新憲法のもとで改正・制定された民法、労働基準法などの法律がどのように女性の労働や家庭生活に影響を与えるのか、簡明に伝えた論説や記事を様々な媒体に掲載し、山川とともに「婦人の職場と地位向上を語る座談會」を開催するなど、女性の労働問題や人権問題についての啓蒙活動に積極的に取り組んでいる。いうまでもなく、こうした婦人少年局での取り組みの背景には戦前の官僚組織での自らの苦い経験があったことだろう。なお、婦人少年局で親交が生じた山川との同志的なつながりは渡辺が官を辞した後も続き、1961・62年には山川、田中寿美子、石井雪枝、伊東すみ子、菅谷直子らと婦人問題懇話会を設立している。
 1949年、渡辺は組合問題で主流派と対立したことから、婦人少年局を課長補佐で退任し、婦人少年局同様に新たに設置されたばかりであった法務府(現・法務省)人権擁護局へと移り、人権擁護局第三課長補佐に就任、予算がないなかで、日本の差別問題の報告書を作成し、国連に提出するなどの業務に取り組んでいる。
 1954年、法務省を退職した渡辺は大分大学学芸学部(現・教育学部)助教授に就任し、国立大学における最初期の女性教員の一人となったが、1958年に第28回衆議院議員選挙大分第一区に日本社会党から出馬することなり、出馬を理由として大分大学を退職した(選挙では4万票近くの票を集めるも次点で落選)。
 1960年代から1970年代にかけては、先述の婦人問題懇話会や婦人人権擁護連盟の設立に携わるとともに、合成化学産業労働組合連合会(合化労連)の事務局で勤務することとなる。合化労連においても、女性の労働問題・人権問題を追及し続け、企業が女性の結婚退職とパートタイムを前提に、「より安い賃金で、より多く働かせ」ていることを批判、「婦人労働問題を全労働者問題」としなければならないこと、「婦人労働者だけの問題ではなく、社会全体の問題としなければならないこと」を訴えている(渡辺美恵「『合理化と低賃金』にあえぐ婦人労働者」社会主義協会編『社会主義』第166号、協同文化社、1965年8月、同「職場における女子に対する差別待遇の実情」婦人少年協会編『婦人と年少者』第14巻第8号、1966年8月)。
 
 合化労連の退職後は郷里の大分で過ごし、婦人問題懇話会のかつての同志たちによると、1990年代初頭、渡辺との音信が途絶えてしまったという。
 
【参考文献】
伊藤セツ『山川菊枝研究』ドメス出版、2018年
伊藤道子「労働省初代婦人少年局長としての山川菊栄」『横浜市立大学論叢 人文科学系列』第62巻第3号、2011年
菅谷直子「ごあいさつ」『日本婦人問題懇話会会報』第53号、1993年4月
秦郁彦「戦前期官僚制余話(3)」財務省編『ファイナンス』第205号、1982年2月
同編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年
同編『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2007年
法務省人権擁護局編『人権擁護の二十年』1968年
宮田章「霞ヶ関ものがたり(第1回)」『公共建築』第38巻第4号、1996年10月