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満州国留学生(留学生編)



2023.5
満州国留学生
学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
阿部裕樹
 
 アジア太平洋戦争が大学や学生生活のあらゆる面に影響を与えたことは周知のとおりであり、アジア留学生たちをめぐる環境も同様であった。1931(昭和6)年9月の満州事変勃発や、1937(昭和12)年7月の日中戦争開戦は、多くの留日中国人留学生を学業半ばでの帰国に追い込み、一方で植民地や日本の支配地域からは新たな留学生が派遣された。
 1932(昭和7)年3月に独立を宣言した満州国は、「日満一体」という国家目標を背景に多くの留学生を日本に派遣した。1936(昭和11)年9月以降は「留学生規定」を公布するなどして留学生を国家の管理下に置き、例えば学業成績書を駐日大使館に提出させるなどの義務を課した。留学先の学校は、大学はもとより、専門学校、高等学校、各種学校など幅広く、留学生数は1934(昭和9)年に892名、1936年に1,294名、1937年には1,848名となりピークに達した。留学生の7割以上が東京府内の学校で学び、留学生の男女比は男子がおよそ9割を占めた。大学・専門学校で学ぶ留学生の専攻は、理工学、医学、法律学、商学、政治学、経済学など多岐におよび、師範学校で学ぶ留学生も多かった。ただ、専攻に関わらず、日本精神の研究・体得が重視され、学校単位で組織された「学生会」に所属し、「一 国家的精神ヲ養成ス。二 日満一体観ヲ養成ス。三 民族協和ノ精神ヲ涵養ス。四、犠牲奉公ノ精神ヲ涵養ス。五 国体的精神ヲ涵養ス。六、勤労精神ヲ涵養ス」という「綱領」を念頭に学生生活を送った。
 表は、大学別の満州国留学生数の一覧である。明治大学専門部女子部以外は、受け入れ留学生数の多い国立・私立の大学を抽出している。表にある1932年および1936~1940(昭和15)年の期間、明治大学が最も多くの満州国留学生を受け入れていたことがわかる。表にはないが、明治大学では大学・専門部とも法・政経で学ぶ留学生が多かった。男子学生ほどではなかったが専門部女子部で学んだ学生が一定数いたこともわかる。女子部では法科より商科で学ぶ学生の方が多かった。
 明治大学では、「日満学生会」が組織され、アジア留学生支援に熱心であった師尾源蔵が「満州留学生顧問」となって、「日本及日本人研究の基礎概念」や「日本文化の特質」などの講話をおこなうとともに、外相面会や、帝国議会、警視庁、文部省、大日本精糖川崎工場の見学会を開催している(「駿台新報」1939年2月17日)。さらに生活面の支援として、1939(昭和14)年和泉キャンパス近くに「満州国学生寮」を整備し、日本人学生とともに寮生活をおくる環境を整えた(「駿台新報」1938年4月23日)。戦時期の日本および満州国の国策を反映していたとはいえ、満州国留学生が明治大学に学んだアジア留学生であることに変わりはない。研究業績が少ない分野であり、すでに80年以上が経過しているが、調査を進めたいと思っている。
 
参考文献 
高田幸男編『戦前期アジア留学生と明治大学』2019年、東方書店
『明治大学百年史』第2巻および第4巻
 
付記 本コラムはJSPS科研費(19H01406)の助成を受けたものです。