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大学設立半年前倒しのいきさつ(施策編)



2023.8
大学設立半年前倒しのいきさつ

明治大学史資料センター運営委員
若林幸男(商学部教授)

 「産業集積」という言葉がある。同一の産業、たとえば同一ジャンルの商品を売る小売り店舗が狭い範囲に集中し、軒をならべることである。「ある限られた地理的範囲において何らかの集積利益が発生」しており、組織「外部」の「経済」を融通しあうことで組織の効率性がアップするというメリットがある。現在の明大通りの楽器店や神田の古本屋街、あるいはその周辺のカレー屋さんなど、現在でも我々のごく身近にそれはある。
 かつて、神田かいわいに明治、中央、専修、法政、日本の私立法律学校が集中して存立していたことも実は産業集積の一つと考えることができる。その理由もやはり、立地条件が最適であったからである。
 文部省は設置時に現在のJR御茶ノ水駅の真ん前にある湯島聖堂(旧昌平黌)内におかれ(その後竹平町…現在の千代田区一ツ橋)、周辺に東京師範学校や東京女子師範学校、商法講習所が集まっており、また一時法律学校群の「特別監督」の立場になる東京大学も歩いてものの20数分の場所にある。神田一ツ橋には日本で初の専用の体育施設を持つ体操伝習所(のち師範学校に統合)がおかれていた。
 法律学校時代は東京大学の先生方、また商科設立の際は東京高商の先生方に講師をお願いしたし、体育会設立前には、スポーツ施設の借用(これは多分学生の個人的なつながりから)など立地を生かして「外部」資源を内部装置の補完のためにフル稼働していたことが推測されよう。明治大学が開校直後に移転先を高等教育機関の集積地である神田に求めたのは必然の成り行きだった。
 また、これら集積地の学校群は情報交換のための会合を持ち、いざというときには一致団結してことにあたっていた。東京大学の卒業生だけが無試験で高等官に任ずるという「文官任用問題」などの際、「神田今川小路の玉川亭」(貸席、煎餅を齧り茶を飲みながら議論することが多かった)に集まるなどしているし、上野精養軒などでの定期的な会合も持っていたようである。これによって各校に個別に収集した情報と他校のそれとを突合せ、また、官庁や政府の方針を全体に共有し、各自の教育・経営に生かすネットワークが機能していたのである。
 この集積地における情報ネットワークを前提としていた明治大学にとって、寝耳に水の出来事が1902年の夏に起こる。1904年に大学としてリスタートしようと決めていた明治大学であるが、この出来事に引きずられ、実際には半年前の1903年の9月に専門学校令による「大学」となったのである。この間、大学設立が予定よりも半年間も早まってしまった。この「大学」申請時の顛末を記した「明治大学基本金募集紀事」という史料には、以下の記述がみられる。「出張中の事故 初め明治大学は三十七年四月を以て高等予科を開始し三十八年九月を以て大学本科を開始する予定なりしか七月下旬校長一行東北巡回中にありしとき僚校法学院突如として専門学校令に依り大学組織を提出したるを以て本校に於いても猶予するを得す因って留守事務員は直ちに書類を調整して七月廿四日付を以て認可願を文部省に差出し」(『明治大学百年史』通史編Ⅰ、p.531)。
 つまり、明治に地理的に最も近くの「同僚の学校」、法学院(のち中央大学)が、明治は次の年に目指していた大学の認可申請をこの年の夏、「突如」として出してしまったこと、それは当然すぐに情報が入ったが、その際、岸本校長らは財団法人化を目指し基本金の募金活動で東北に出張していた点、これを受けてすぐに留守番の事務員が機転を利かせ、書類を調整し、同じタイミングでの「大学」スタートを図った点が記述されている。7月下旬の他校の申請の情報をほぼ同時にキャッチし、すぐにそれに対応していることがわかる。幹部出張中の「事故」への即座の対応であるものの同時にそれは、法律学校「集積」の効果の一面が表れている出来事である。