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戦時下の中国人留学生張福来(留学生編)

2023.10 
戦時下の中国人留学生張福来
 
明治大学史資料センター運営委員
三田剛史(商学部教授)
 
 張福来は、1943年1月頃明治大学政経科に留学していたが、出身地・生没年や第二次世界大戦後の歩みなど詳しいことは、管見では目下一切不明である。張福来は、雑誌『揚子江』第53号(1943年2月発行)に掲載された座談会記録「中國學生の語る(座談会)中國參戰に我等何を爲すべきか」に登場する。
 同誌は、1938年9月に中支那派遣軍の後ろ盾で創刊された月刊誌で、発行所・印刷所を東京に置きつつ中国の各地に支局を置く形で編集された総合誌であった(1)。つまり日本の国策宣伝誌である。当時の情勢をみると、1942年12月に日本は「大東亜戦争完遂のための対支処理根本方針」を策定して汪兆銘を首班とする南京国民政府に参戦させることを確認した(2)。次いで1943年1月9日、南京で「戦争完遂についての協力に関する日華共同宣言」が発表され(3)、同日南京国民政府は米英両国に宣戦布告した(4)。座談会「中國參戰に我等何を爲すべきか」は、1943年1月14日に開催された。掲載誌『揚子江』第53号は、表紙に「參戰する中國」の文字と汪兆銘の写真が掲げられており、南京国民政府の対米英宣戦布告特集号の体をなしている。張福来以外の中国人留学生の出席者は、東京帝国大学の四人と東京歯科医学専門学校、東京工業大学、第一高等学校それぞれ一人であった。日本側は大東亜省支那事務局の総務課長以下三人が出席した。留学生はまず日本に来た感想を求められ、張福来は次のように述べた。「日本人が一丸となって凡(あら)ゆる忍苦に耐勞して大東亞戰爭の完勝に邁進してゐるのを見てこの戰爭に共同の運命(うんめい)をもつ中國人の贅澤は恥かしいと感じて居ります。……今や東亞のあらゆる天地(てんち)から米英的なものを一掃する機會を日本の實力に依つて作つてくれたことに深甚(しんじん)の敬意を抱いてゐるのであります。」他の留学生も同様に、大東亜戦争に邁進する日本を讃え、中国と日本の「同生共死」に賛意を表したりしている。この対談だけを読んだのでは、彼らが本心から大東亜戦争に共鳴しているのか、一種の韜光の態度であったのか判然としない。
 だが一方で、中国にいる日本人による現地の中国人の反感を煽るような行為が多いという発言も複数あり、張は次のようにも述べている。「中國現地の日本人の素質が日本内地の日本人よりも落ちる……中國現地にゐる日本人の再教育問題もこの際大切なことだと思います。」大東亜戦争の宣伝工作に駆り出された留学生のせめてもの抵抗であったのだろうか。日本側出席者はこれらの指摘に答えず、帰国したら留日学生組が中国の民衆を指導していかなければならないとの説教に終始している。張福来ら留学生は、留学後そして第二次世界大戦終結後、どのような人生を送ったのだろうか。

(1)田島俊雄「朱紹文研究員(1915-2011年)とその時代」『経済志林』87巻3・4号、2020年、282頁。
(2)竹内実+21世紀中国総研編『日中国交文献集』蒼蒼社、2005年、239-242頁。
(3)前掲、240頁。
(4)『近代日中関係史年表』岩波書店、2006年、629頁。