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明治大学に残る戦争遺跡(4):生田キャンパスと慶應義塾大学(キャンパス編)

【写真】敗戦直後の旧登戸研究所付近の空中写真(1947年 米軍撮影:国土地理院所蔵) 赤罫線以南が「慶應義塾大学登戸仮校舎」の領域

2023.11
明治大学に残る戦争遺跡(4):生田キャンパスと慶應義塾大学

明治大学史資料センター運営委員
山田 朗(文学部教授)

 明治大学生田キャンパスが、旧日本陸軍の登戸研究所(第九陸軍技術研究所)の跡地に立地していることは、平和教育登戸研究所資料館の存在もあり、現在ではかなり知られるようになった。だが、戦争と占領に関わる事情によって、終戦後しばらく、まだ明治大学がキャンパスを設置する前の時期(1945年9月〜1950年3月)に、生田キャンパスの土地に「慶應義塾大学登戸仮校舎」があったことはほとんど知られていない。
 「慶應義塾大学登戸仮校舎」とは、同大学の日吉校舎(現・横浜市港北区)の医学部予科・工学部予科・法学部予科(1)が一時的に生田の地に移転してきていたことを指す。なぜ、慶應義塾大学予科は、移転しなければならなかったのか。これには2つの事情があった。一つ目は、1945(昭和20)年4月15日の横浜空襲で、日吉校舎の8割が焼失しキャンパスとしての機能を喪失したこと、二つ目は、敗戦後の9月8日、GHQ(連合国軍総司令部)が日吉校舎を接収し、焼け残った施設も使用できなくなったからである。GHQが日吉校舎を接収したのは、ここに戦時中(1944年9月末以降敗戦まで)、日本海軍が連合艦隊(1945年5月以降は海軍総隊)の司令部を置いていた関係で、日吉校舎が「軍事施設」とみなされたためである。
 1945年9月の米軍による日吉校舎接収後、慶應義塾大学は、ただちに旧登戸研究所の土地の南半分【写真】約2万坪、建物87棟を国より借り受けて授業を開始したとされている(2)。旧登戸研究所の土地の南半分とは、現在の正門から東西に延びる道路よりも南側の領域(中央校舎・図書館・農学部エリア)である。登戸研究所の建物群は、空襲(爆撃)を受けていなかったので、その研究施設・製造工場は、ほとんどそのまま研究室・実験室・教室へと転用することが可能だった。とりわけ、偽札の印刷工場だった建物群は、西洋トラス構造で、広い空間が取れたので教室に転用するのに便利であったものと思われる。その後、1947年2月に寄宿舎として使用していた1棟(現在の中央校舎の場所)が焼失する事故があったが、「慶應義塾大学登戸仮校舎」は、1949年10月の接収解除にともない(3)大半の施設が日吉に復帰し、1950年3月までに生田からの引き払いを完了した。
 「軍事施設」であった登戸研究所の跡地・建物は、戦後いったんGHQによって接収され、1947年2月に日本政府に返還された。同じ旧「軍事施設」であっても、慶應義塾大学日吉校舎は接収が四年余にわたったのは、日吉がその利便性から米軍将兵の宿舎として使用されたのに対し(4)、登戸研究所跡地が短期間で接収が終了し、しかも接収中に慶應義塾大学の使用が認められたのは、米軍側に具体的な土地利用の必要性がなかったためであろう。
 明治大学が千葉県誉田にあった農学部の移転候補地として、「慶應義塾大学登戸仮校舎」借用地を含む旧登戸研究所跡地の払い下げ交渉を本格化させたのは1949年秋のこと、生田キャンパス開設は1950年5月のことである。

(1)予科とは、戦前において大学に付属し、大学本科に進学するための予備教育(旧制高等学校レベル)を行なう2年ないし3年制の高等教育機関のことで、戦後の学制改革によって主に大学の教養部に改組された。明治大学でも、現在の和泉キャンパスは、1934年に駿河台より移転した明治大学予科のキャンパスとして発足した。
(2)当時、旧登戸研究所の土地・建物は、国有財産であった。海野福寿・渡辺賢二・山田朗編『陸軍登戸研究所--隠蔽された謀略秘密兵器開発--』(青木書店、2003年)12頁。
(3)阿久澤武史・都倉武之・亀岡敦子・安藤広道『日吉台地下壕:大学と戦争』(高文研、2023年)41頁。
(4)同前。