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駿河台キャンパス開設の切っ掛けをつくったのは、江戸の町づくりのために 「神田山」の開削を命じた「家康」だった?(キャンパス編)

◎神田山の開削と日比谷入江の埋立の関係図 鈴木理生『江戸の川・東京の川』、日本放送出版協会、1978.3より作成 ※ 国土交通省関東地方整備局 ※東京港湾事務局ホームページより引用 ◎徳川家康の江戸到着時の地形と現在の地図との比較 ※写真ナビより引用 ◎「山の上(ヒルトップ)ホテル」の名称は、家康の命により開削された「神田山」跡地の名残 ※リバティタワー横の「吉郎坂」から山の上(ヒルトップ)ホテルを望む。 ◎浮世絵に描かれた御茶ノ水 昇亭北寿「東都 御茶ノ水風景」 ※浮世絵に描かれた江戸時代の御茶ノ水の風景(右手は「昌平坂」) 太田記念美術館ホームページより引用

2023.12
駿河台キャンパス開設の切っ掛けをつくったのは、江戸の町づくりのために
「神田山」の開削を命じた「家康」だった?

明治大学史資料センター運営委員
岩﨑 宏政 (中野キャンパス事務部中野教務事務長)

 明大生は元より、明治大学校友を始めとした「明大人」にとっては、現在の駿河台キャンパスが所在する「神田駿河台」という地名は、誰もが知っていると思う。
 しかし、明治大学校歌にもうたわれているこの「駿河台」という土地の前身が、徳川家康の江戸入りに伴う江戸城の築城や新しい町づくりのため、当時は浅瀬の海だった日比谷入江(現在の日比谷公園及び新橋付近)の埋立工事を目的とした土砂採取のために切り崩した「神田山(現在の御茶ノ水駅付近を頂上として存在していた。)」ということを知っている方は、まだそれほど多くないのではないか。

 1590(天正18)年に家康は、駿府から江戸入りし、その130年以上も前の1457(長禄元)年に太田道灌が築城した「江戸城」を居城とした。
 家康の江戸入りの頃は、その昔江戸氏や道灌が支配していた頃の地形とそれほど変わってはいなかったようで、江戸城付近まで日比谷入江が入り込み、現在の日比谷公園や新橋周辺まで浅瀬の海だったとのことである。
 因みに、この日比谷入江を含めた江戸前の海(現東京湾北部西側)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた魚介類を新鮮なうちに客の前で握って寿司を提供することが可能であったことから、江戸時代後期頃には「江戸前寿司」と呼ばれるようになったとのこと。)

 家康は、この地を将来の日本の中心とすることを目指して、大勢の人々が永住できるように新たに江戸の町を整備するために、幅広い分野での大改造に着手し始めた。
 まず、当時は湿地帯が多く未開地であった江戸に平坦な宅地を広げるために、大規模な日比谷入江の埋立工事を行ったようである。そこで江戸城からもほど近い距離にある神田山を開削し、その土砂で日比谷入江を埋め立て、また、数多くあった汐入地も埋め立てたとのことである。その後も引き続き神田山を切り崩し、日本橋浜町から新橋付近が埋め立てられた。

 現在の日比谷公園や新橋付近の土地が、かつて駿河台にあった神田山の土砂で大規模造成されたというこの史実は、明治大学にとってとても興味深いものである。
 もし、家康が第一次天下普請で1603(慶長8)年から本格化した日比谷入江の埋立工事に着手していなかったら、神田山はその後も存置されたはずであり、そうであれば、1881(明治14)年1月17日開校の明治法律学校の発祥の地は、そもそも神田山の土砂による埋立地の日比谷入江付近の「大名小路」と呼ばれた有楽町にあった旧島原藩上屋敷跡(三楽舎)ではなかっただろう。さらには、有楽町からの校舎移転先は、駿河台南甲賀町11番地〔南甲賀町校舎(1886(明治19)年12月竣工)〕ではなく、まったく別の地になっていたはずである。
 そうなっていたら、創立30周年〔1911(明治44)年〕を契機に、南甲賀町校舎から移転して旧小松宮彰仁親王邸跡地〔移転時は賃借。その後1916(大正5)年に購入〕に開設された現在の「駿河台キャンパス」は存在しないということになる。

 実際の歴史では、「過去」における史実の積み重ねによって「現在」が存在するので、所謂「タラ、レバ」はあり得ないが、前述のような視点で史実を明治大学の歴史に当てはめてみると、「江戸の町づくりのための神田山開削による日比谷入江の埋立工事を命じたことによって、その約310年後の駿河台キャンパス開設の切っ掛けをつくったのは家康だった。」とも考えられるのではないか。

 開削された神田山の跡地には、現在でも駿河台キャンパス付近に「吉郎坂」「男坂」「女坂」ほかの坂があるものの、そのほとんどは平坦で人の住める土地に変わり、高台の「神田駿河台」として、昔の名残を留めている。
 そのほか家康は、人口の急増が予想される江戸の上水道の整備にも積極的に着手した。平川(後の神田川)は、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路として、加えて江戸城を守るための濠としても利用されたが、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸城外堀として機能させるとともに 江戸市中へ飲料用水を運ぶ上水(後の神田上水)としても活用することを計画した。

 その後第二代将軍徳川秀忠の時代には、家康の構想に基づいて、平川の下流域で頻発していた洪水対策と外敵からの防衛を目的とした外濠機能の強化策として、神田山(本郷台地:現在の飯田橋駅付近)に当って南に分岐していた流路を東に付け替え、墨田川に合流させる工事が行われた。これが現在の神田川のおおもとになった。
 1620(元和6)年、秀忠の命を受け、仙台藩祖の伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当したとのこと。小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在のお茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した。このため、この区間は特に「仙台堀」とも呼ばれるとのことである。

参考:「駿河台」の地名の由来
※ 千代田区 町名由来板:駿河台(西)【JR「御茶ノ水」駅前交番横設置】から引用(抜粋)

 高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山(かんだやま)」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。
 しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
 さて、家康が駿府で没した後、家康付きを解かれ、駿河から帰ってきた旗本〔駿河衆(するがしゅう)〕たちが、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えました。駿河衆が住んでいたことや駿河国の富士山が見えたことなどから、この地は駿河台と呼ばれるようになり、多くの武家屋敷が立ち並ぶ地域となりました。
 江戸時代初期には、奈良奉行を勤めた旗本中坊長兵衛、また、幕末には勘定奉行や軍艦奉行を勤めた小栗上野介忠順などが居住していました。明治になると、武家屋敷の跡地が華族や官僚などの屋敷に変わり、加藤高明男爵邸、坊城俊長伯爵邸、小松宮邸などいくつかの邸宅は昭和の初期まで残っていました。

参考資料
・ 千代田区ホームページ 町名由来板
・ 国土交通省関東整備局 東京港湾事務所ホームページ
・ 写真ナビ(@shasinnavi.com)ホームページ 神田山
・ 日本食文化の醤油を知る ホームページ 江戸前握りずしの誕生
・ 太田記念美術館ホームページ お茶の水は人工の渓谷だった