Go Forward

映画監督・岡本喜八のDNA(文化人編)

 2024.1
映画監督・岡本喜八のDNA   

明治大学史資料センター運営委員 
松下浩幸(農学部教授)

 戦後の代表的な映画監督の一人である岡本喜八が描く作品の多くは戦争をモチーフにしている。1924(大正13)年生まれの岡本は、その青春時代を日本の戦時期と軌を一にしているが、それは同時に戦争で多くの友人を失くした世代であり、同時に自分たちは生き残った、あるいは生き残ってしまった世代であることを意味する。
 岡本は1941(昭和16)年、17歳で故郷の米子から上京し、明治大学専門部(商科)に入学するも、その年の暮れには太平洋戦争が勃発する。そのため3年の修業期間を2年半に短縮されて1944(昭和19)年秋に卒業、同時に東宝へ助監督として入社する。しかし、その4ヶ月後には徴用され、21歳の正月に千葉県松戸の陸軍工兵(特別甲種幹部候補生)として入隊する。その後、豊橋で終戦を迎えるも、復員し、帰郷してみると、商業学校の同級生の半分は戦争で死んでいたという。戦争の中で明治大学での学生生活を送った岡本は、自分の寿命は上手くて23歳、下手をすれば21歳だと思い、同世代の者が岩波文庫を一冊でも多く読もうとしたように、死ぬまでに1本でも多く映画を観ようと決意する。
 その時代、岡本の郷里では学生が映画館に出入りすることは固く禁じられており、見つかると即時退学処分にされたため、自由に映画を観ることができなかった。そのため、戦時下ではあったが、明治大学の学生としてつかの間の自由を手にした岡本は、自分の寿命を惜しむかのように、時間の限りを映画とともに過ごす。やがて、映画への想いは、死ぬまでに1日でもいいから映画の作り手になりたいという夢を育むことになる。
 だが、その夢をつかみかけた途端に岡本は徴用され、軍隊生活を余儀なくされた。終戦間近、本土決戦に備えて岡本たちは特攻艇要員かゲリラ要員になることを想定されており、8月15日の終戦の日が延びていれば、岡本の予言通り、彼の命もまた若くして潰えていたかもしれない。だが、幸いにも岡本は生き延びる。しかし、そのことはその後の岡本の映画作りの基本を形作ることになる。生前、「黒色」を好み、衣服から身の回りの物の多くを黒で統一したという岡本は、その「黒」に青春の途上で命を失くしていった仲間たちへの「弔い」の意味を込めていたともいわれる。そのような戦争によって死んでいった者たちへの鎮魂の思いと、それを強いた国家への批判精神は、その後の岡本を「戦中派」を代表する表現者へと駆り立てていく。
 その岡本は近年、『シン・ゴジラ』(2016年)という特撮映画に「出演」している。むろん、岡本は当時すでに亡くなっていたので、生身の岡本が出演しているわけではない。映画の中で、ゴジラの謎を知る行方不明になった生物学者・牧悟郎として「写真」で登場する。これは『シン・ゴジラ』の監督を務めた庵野秀明が、大の岡本喜八のファンであったことに由来する。庵野は人生の中で何度も繰り返し観て、多大な影響を受けた2本の映画として岡本の代表作である『日本のいちばん長い日』(1967年)と、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)をあげている。岡本の映画に共通するカット割りの技術によって生まれるリズム感やテンポの良さ、また群像劇としての緊張感の出し方を、庵野は自らの映画作りのために学んでいる。
 戦後の映画界を牽引した岡本喜八は、2005(平成17)年2月、明治大学の生田キャンパスにほど近い自宅で81歳の生涯を終える。つねに戦争の記憶を忘れることのなかった岡本であるが、その映画は彼の人柄同様、シリアスな中にも軽やかさやユーモアが同居している。常に映画を最上のエンターテイメントとして作り上げてきた岡本の映画作りのDNA(遺伝子)は、その死後も、次世代の監督へと確かに受け継がれているのである。

〈補足〉
 戦前、旧制中学(5年または4年)を修了した生徒は進学する場合、①旧制高等学校、②大学予科、③専門学校、④各種学校へのルートがあったが、私立大学の多くは経営上の都合から②と③を併設していた。②は大学令(1920年施行)に基づき、③は専門学校令(1903年施行)に基づいているため、②を大学部予科、③を専門部と称した。②を卒業すれば、称号として学士号が得られたが、③の専門部ではそれは得られなかった。