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洋画家黒田清輝と明治大学経緯学堂(アジア編)

2024.02
 洋画家黒田清輝と明治大学経緯学堂
 
 
学術・社会連携部博物館事務室
大学史資料センター担当
古俣達郎
 

 近代日本を代表する洋画家、黒田清輝(1866-1924)。黒田は画家として日本の洋画界、画壇を牽引する一方、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で西洋画科の主任教授を務め、東京高等商業学校(現在の一橋大学)でも15年にわたってフランス語を教えるなど、教師として側面も有していた。
 しかしながら、黒田が一時期、明治大学で教鞭を執っていたことはあまり知られていない。1904(明治37)年、黒田は明治大学が設立した清国留学生(中国人留学生)向けの教育機関、経緯学堂(普通科)で「図画」の科目を担当していたのである。経緯学堂では内海弘蔵(月杖)、紀平正美、上田敏、林鶴一、深田康算、和田垣謙三など名だたる文学者・学者・知識人たちが教鞭を執っていたが、黒田もそのうちの一人だった。『黒田清輝日記』には、黒田が神田錦町にあった経緯学堂の授業に通う様子が次のように書き残されている。
 

1904年〕九月三十日 金

午前登校 午後一時半ヨリ三時半マデ神田錦町経緯学堂ニ於テ第一回ノ授業ヲナス
両国与兵衛ずしニテ夜食(中勝ト共ニ)九時頃帰宅

   

〔同年〕十月七日 金  

経緯学堂ニ於テ第二回授業ヲナス 後芝新掘糸川氏方ニ川路君ヲ訪ヒ夜ニ入リ帰宅 

 
 黒田が経緯学堂の講師に就任した経緯についてはよくわかっていないが、経緯学堂で主事を務めていた吉田義静の誘いによるものではないかと推測される。吉田は経緯学堂設立当時、黒田の母校である東京外国語学校(現在の東京外国語大学)でフランス語教官を務めていたが、かつて黒田と同時期にパリに滞在しており、黒田の日記や書簡には吉田の名が登場する(『現今日本名家列伝』によれば、吉田のフランス滞在歴は1887年~1894年まで約7年にも及ぶ。もとは出身の熊本藩の旧藩主長男細川護成に付き従ったものだったという) 。また、黒田が経緯学堂の講師を引受けたもう一つの理由としては、長年にわたり教鞭を執っていた東京高等商業学校(神田区一ツ橋通町一)と距離的に近く、多忙な黒田でも通いやすかったという事情もあったと思われる。
 翌1905(明治38)年には、黒田は先の内海や上田の他、大町桂月、夏目漱石らとともに明治大学高等予科文芸部の文芸作品コンクールの選者に就任するなど、明治大学との関係は続いた。 
 
 ちなみに、黒田はもともと画家志望ではなく、法律家を志していた。東京外国語学校でフランス語を専攻し、1884年に17歳でフランスに留学したのもフランスで法律を学んで法律家になるためであった。実際、パリでは当時代理公使を務めていた原敬(後の首相)らの勧めで法律大学校に入学している(1893年帰国)。フランスで法律学や法学を学んだ人物といえば、明治大学の創立者である岸本辰雄や宮城浩蔵らがその先駆けであるが、黒田が留学中に画家志望に転向しなければ、黒田は彼らの後継者となり、明治大学で法律を教えていたかもしれない。
 
【参考文献】
『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年
『明治大学百年史』第一巻史料編Ⅰ(1986年)、第三巻通史編Ⅰ(1992年)
荒屋鋪透「ドガと林忠正──交友についての覚書」(三重県立美術館ドガ展図録、1988年)https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55215038288.htm
黒田清輝著・隅元謙次郎編『黒田清輝日記』全四巻、中央公論美術出版、1966年
*『黒田清輝日記』は東京文化財研究所「東文研アーカイブデータベース」にて閲覧・検索可能。https://www.tobunken.go.jp/materials/kuroda_diary
小泉順也「東京高等商業学校と黒田清輝」一橋大学大学院言語社会研究科『言語社会』第11号、2017年3月