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明治大学専門部女子部校舎と「石炭の神様」佐藤慶太郎(財界人編)

2024.3
明治大学専門部女子部校舎と「石炭の神様」佐藤慶太郎

明治大学史資料センター所長
村上一博(法学部教授)
 
 佐藤慶太郎(1)は、1868(明治元)年10月9日、筑前国遠賀郡陣原村(現在の福岡県北九州市八幡西区陣原)に、父孔作と母なをの長男として生まれた。少年時代の生活は貧しく、親戚からの援助によって、1886(明治19)年、福岡県立英語専修修猷館(現在の修猷館高校)に入学した(第2期生)が、法律を学ぶ必要を強く感じて同校を中退、親戚からさらなる経済的援助を受けて上京し、1887(明治20)年、明治法律学校に入学した。しかし、生来病弱な体質であったところに無理をおして勉学に励んだことが禍したのか、脚気のため高雄山で療養するなど、在学中の勉学は一向に進まなかったようである。そのため、法曹となる夢は諦めざるをえず、1890(明治23)年7月に卒業後帰郷した。しばらく療養したのち、1892(明治25)年、洞海湾の若松で随一の石炭商山本周太郎商店の店員となり、店主の義妹俊子と結婚、順調に営業実績を伸ばして、1900(明治33)年には、山本商会から独立、佐藤商店を立ち上げた。この頃、筑豊炭は全国出炭量の半分を占めるようになり、石炭取引は活況を呈していた。佐藤は、筑豊の炭坑に何度も足を運んで、採掘作業の実際を見学して石炭の品質や採掘方法を学んだほか、流通方法についても検討を重ねて、門司港停泊汽船への石炭直積み方式という独創的な手法を開発、また、これまで品質が劣るとして敬遠されてきた大隈炭を、陶磁器業や捕鯨業に売り込むことに成功した。さらに、日露戦後の石炭需要の高騰を受けて、1908(明治41)年、炭鉱経営に乗り出し、高江炭鉱の鉱主となった。その傍らでは、1918(大正7)年に若松市会議員選挙で当選して市会議長となり、1920(大正9)年には三菱鉱業の監査役にも就任したが、持病である胃腸病の悪化が懸念されたことから、主治医の助言に従って経営の第一線から退いた。その後、1934(昭和9)年、若松市の邸宅を市に寄贈して(現在の佐藤公園)、別府に移り住み、当地で、1940(昭和15)年1月17日(享年71歳)、死去した。
 以上が佐藤の生涯の概略なのだが、最近、彼の遺業に接する機会が多い。まず、①今年4月から放映が開始されるNHK朝ドラの舞台となり、三淵嘉子ら女性法曹のパイオニアたちを生み出した明治大学専門部女子部の最初の校舎(1929(昭和4)年4月開校)は、旧明治中高のグランドあたり(千代田区神田猿楽町)に建設されのだが、我が国で初めて女性に法律を学ぶ機会を与えた当該学校に理解を示し(2)、その建設費として6,000円(現在の約1,800万円相当)を寄付したのが、佐藤であった。また、②数多くの文豪や歴史家たちが「かんづめ」になったことで知られる神田駿河台の「山の上ホテル」が、建物の老朽化への対応を検討するため、今年2月から当分の間休業することとなったが、ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計によるホテル本館は、もともと、1937(昭和12)年に「佐藤新興生活館」という名称で・・・佐藤が150万円(約45億円)を拠出して貧窮者の生活改善などを目標として全国的規模で展開した「大日本生活協会」の本部として・・・、総工費38万円(約11億円)を投じて建築されたものであった(戦時中は旧海軍、戦後はGHQに接収されWAC(米国婦人陸軍部隊)の宿舎として使用され、その後返還されて、1954(昭和29)年1月から山の上ホテルとなった)(3)。さらに、③上野にある東京都美術館内のアートラウンジの一角に、朝倉文夫が制作した佐藤の胸像が設置されているのだが、その理由は、当該美術館の資金調達の目途が立たず建築計画が頓挫しかかっていることを知った佐藤が、建設資金の全額100万円(約30億円)を寄付したことで、「東京府美術館」として1926(大正15)年に開館されたからなのである。
 死後は、佐藤の遺言に従って、別府市美術館および体育館の建設費、財団法人佐藤育英財団の設立資金などに、全ての遺産188万円(約56億円)が寄贈されている。「石炭の神様」と称えられた佐藤は、石炭流通と炭鉱経営によって、巨万の富(150億円を悠に超える)を築いたのだが、その殆んど全ての財産を、(a)困窮者の生活改善運動、(b)女子教育や若者への奨学金、(c)学校・病院の建設、(d)下水道などのインフラ整備、(e)美術館・体育館といった文化芸術施設の建設などに、投じたのである。佐藤は、アメリカの鉄鋼王カーネギー(Andrew Cernegie)の、自ら築き上げた財産は社会からの預かり物であるから、すべて社会に還元するのだという言葉に感銘を受け、それを実践したのだと語っているが、常人には到底成し遂げることができない偉業であり、「石炭の神様」と称えられた所以である。我々は、明治大学の先輩校友に、佐藤のような類い稀な実業家がいたことを、後進の学生たちに永く伝えていかなければならない。
 
(1) 佐藤慶太郎については、「慶太郎自叙伝」(6回)『生活』(1939年11月~1940年4月、佐藤新興生活館)、佐藤慶太郎翁伝記編纂会『佐藤慶太郎』(大日本生活協会、1942年)、斉藤康嘉著『佐藤慶太郎伝-東京府美術館を建てた石炭の神様-』(石風社、2008年)、秋谷紀男「佐藤慶太郎」『明治大学小史《人物編》』(学文社、2011年)など、参照。
(2) 法科への女性の入学が認められたのは、1923(大正12)年に東北帝大に新設された法文学部においてあり、次いで1925(大正14)年に九州帝大でも法文学部が新設された。もっとも、実際に法律学科に女性が入学したのは、1936(昭和11)年に九州帝大に入学した門上千恵子が最初であった。これに対して、明治大学専門部女子部(法科・商科)は、少し遅れて1929(昭和4)に開校されたが、開校初年から、法科に93名が入学しており(卒業後に法学部へ進学する道が開かれていた)、その後も入学者が継続していることから、実質的にみて、女子部こそが、女性が法律を学ぶ機関として世間的に認知された最初の学校であったと言ってよいであろう。
(3) 常盤新平『山の上ホテル物語』(白水社、2007年)など、参照。