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「自立」する女性たち(キャンパス編)



昭和期授業風景 女子部授業のようす(商科・商業実践) 模擬裁判 女子部法科模擬裁判のようす

2024.5
 「自立」する女性たち
 
明治大学史資料センター運営委員
若林幸男(商学部教授)

 「虎に翼」、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)で、なつかしい旧記念館の情景を観る毎日であるが、物語のテーマ通り、旧民法時代の日本社会を生きる女性はさぞかし窮屈なことであっただろう。男尊女卑、「良妻賢母」を由として、職業選択の幅も少なかった。だが、この時代であっても、特定の技能を持つ専門職については、少し事情が異なる。明治17年に初めて国家資格としての女医となった荻野吟子さんをはじめとする医師の世界、あるいは教育などの世界では、近代に入ってほどなく女性への門戸は開かれた。そしてそこでは、こういった職業人の養成機関が済生学舎や東京女医学校など学校教育制度として整備されていった。
 また、企業社会であっても、タイプライターや速記者、電話交換手など近代に新たに生まれた職業では専門教育を施す教育機関を通じて多くの女性たちが活躍するようになる。図は、明治大学に女子部が設立された時期、東京市が行った16000人の市内の「職業婦人」に対する統計から抽出したタイプライターの最終学歴である(東京市役所『婦人職業戦線の展望』1932年)。高等科が専門学校に相当する技芸学校以上の学歴を持つタイピストは全体の20%弱、商業の実科女学校以上を合わせると全体の8割を占めている。 
 当初裁縫など家庭科を中心に教授されていた女性の中等・高等教育機関の一部は1900年代からは社会に巣立とうとする専門教育熱を吸収し、「職業婦人」を育成する専門的なカリキュラムを増設しており、明治大学もいち早くこの需要をすくい取ったことになる。1926年の文部省資料によると、東京府立の高等女学校の卒業生のうち高女高等科や東京女子師範、日本女子大などへ進学する比率は60%前後にも達していた(『日本近代教育百年史』第5巻)。
 先に上げた東京市役所の調査で面白いのは、アンケートによって彼女たち自身からの回答を集計したデータが得られる点である。本調査の「就職の方法」については、その就職先の選定を「学校の紹介」に頼ったと答えている割合が、事務員、タイピストでそれぞれ31%、38%にも上っており、女工の0.6%と比較にならないことがわかる。中等・高等教育機関は専門的知識の付与だけではなく、新卒労働市場における就職紹介機能を併せ持っており、「進学」は単なる知識の習得以上に「入職・入社」のための太く、信頼できる途でもあった。
 「就職の目的」を聞いた箇所をみると、「家計補助」が大多数を占めてはいるが、「嫁入り仕度」や「修養のため」と並んで「自活のため」と答える回答もあり、とくにタイピストでそれは20%にも達していた。三井物産に1909年に入社したタイピストの初任給およびその後の昇給率を追跡してみると男性正規職員のそれの平均値にあった。「雇」という身分ではあったが、この会社の場合、退職手当も年金も正規職員とあまり変わらない厚遇が用意されていた。その後の勤続も長く、観察できた最後の段階では40歳を過ぎても勤め続けており、また、東京本社から長崎支店への「転勤」も書類上ではあるが、確認できる。現代の「キャリアウーマン」と比較して「自立」についてなんの遜色もない。
 高等教育による女性の正規の受け入れは実は日本ではかなり早期に実現した。イギリス、ケンブリッジ大学などでは傍系カレッジで女性教育を展開したものの、それはインフォーマルなもので、女性に対して「学位認定」を伴う、日本で考える「共学」への移行はようやく20世紀後半に実現し、その実績はここ40年ほどのことでしかない。「紳士としての教養教育」に重きを置く国と「職業に結び付く専門教育」を主とする国の相違なのかもしれない。