2024.7
朝鮮半島における野球部の活動(2)
明治大学史資料センター運営委員
山下達也(文学部教授)
前回のコラム(「朝鮮半島における野球部の活動(1)」)では、1931年までの明治大学野球部の朝鮮半島での交流活動について紹介した。今回はその続編として、1930年代に行われたほかの交流試合について紹介したい。
1933年6月21~25日、京城運動場にて明治大学野球部と朝鮮半島野球界の強豪を網羅する京城野球連盟所属チームから推薦された4チームが対戦する交流試合が開催された。
開催を報じた同年6月18日の『京城日報』では、「強豪明治来る 迫力を誇る明治大学野球部 連盟の四チームと廿一日から四試合」という見出しのもと、明治大学野球部については、「六大学リーグ戦の雄として知られ、全国に多くのフアンを持つ明治大学野球部」と紹介されている。また、そのメンバーについては、「血の出る様な猛練習によつて十五名のレギユラーを定め他の全員を平部員として成績の優秀なものからピツクアツプしてレギユラーとし自然淘汰的に優秀な選手を養成する方法」で育成された選手たちと記されている。
また、同記事では、「何れの学校でも独自の伝統的スピリツトがある、慶応には塾としてのスピリツトがあり早大にはワセダ・スピリツトがあり何れも伝統的精神が流れてゐる、明治には何れの場合にもヒタ押しに押して行くあのタンクの如き気風がある、明治は往年のメイヂ・スピリツト復活への努力は全選手の間に漲つてゐる。そして此春のリーグには明治の持つ一種特別の気力によつて押しに押した、こゝに岡田監督の腕の冴えが窺はれるであらう、この明治スピリツトを遺憾なく発揮せしめる対京城実業野球連盟との試合は必ずやフアンをして胸のすく様なゲームを見せるであらう」とあり、六大学リーグのなかでの明治大学の「気風」や戦いぶりが紹介され、今回の交流試合への期待について記されている。『京城日報』6月22日の紙面では、21日の試合の様子が詳細に報じられ、龍山鉄道チームと対戦した明治大学が7対4で勝利したことがわかる。また、『朝鮮中央日報』6月23日付の記事では、22日に朝鮮鉄道チームと対戦した結果、明治大学が同様に7対4で勝利したこと、同26日の記事では24日に逓信チームと対戦した結果、明治大学がやはり5対1で勝利したことが分かる。
その後、明治大学野球部の朝鮮来訪が詳細に報じられたものに、1938年7月の交流試合がある。『京城日報』の記事によれば、7月1日には釜山鉄道野球部を相手に、2日には京城に会場を移し「対鉄道」、3日には「対府庁」、「対京電」、5日には「対全京城」の試合が行われた。1日の試合は午後4時30分から釜山公設運動場にて行われ、「六大学リーグ三連覇の明大ナインの軽快なプレーを見んものと観客は午後二時頃から続々球場に詰かけ、開戦後既に満員の盛況」であったと報じられている。慶尚南道知事による始球式に始まった同試合は7対0で明治大学が勝利した。なお、入場料はネット裏1円、普通券50銭、学生券30銭と設定されている。また、5日に行われた「全京城」との対戦は、当日の朝刊に「全京城軍敗けられぬ此一戦 嵐を呼ぶ対明大軍」という見出しで取り上げられ、朝鮮のチームがこの日まで全戦完勝の明治大学野球部に勝利することが期待されている。しかし、結果は5対1で明治大学が勝利し、翌日の新聞には「明大堂々と四連勝」の見出しのもと、試合の詳細が報じられた。その後も明治大学野球部と在朝鮮チームとの交流試合は続き、8日には「対全仁川」、9日には「対平壌鉄道」の試合が行われ、8日の「全仁川」との試合は、「雨中の攻防戦」としてその詳細が7月9日の『京城日報』で報じられている(結果は12対5で明治大学が勝利。)
このように、明治大学野球部は朝鮮半島でしばしば交流試合を行っていたことがわかる。試合のことを報じた新聞の記事からはいずれも盛況であったこと、朝鮮にも多くの野球ファンがいたことが窺われる。
交流試合では選手たちが真剣にプレーし、客は観戦を楽しんだことに疑いはない。ただし、こうした交流が行われたのが日本統治下期であったことも忘れてはならない。開催の趣旨がどのようなものであったか、来賓が誰で、観戦できたのはどのような人々であったのか、そうしたことにも目も向けながらこれらの「交流活動」を捉えていく必要があるだろう。
【史料】
● 『京城日報』1933年6月18日、1938年7月2、5、7、8、9日付。
● 『朝鮮中央日報』1933年6月23、26日付。