2025.9
岡本喜八 日記に綴られた「明大生」の頃
明治大学史資料センター運営委員
松下浩幸(農学部教授)
『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』(集英社新書 2024年1月)には、岡本喜八(1943年9月・本学専門部商科卒)の貴重な学生時代の日記が紹介されている。著者の前田啓介氏は、岡本のシナリオを保管していた島根県安来市の足立美術館で調査をしていた際に、偶然その日記を発見し、一部を本書で紹介している。発見された日記の冒頭には「昭和十七年九月十八日(明治大学二年)筆を染む。」と書かれている。 昭和17(1942)年は6月のミッドウェー海戦で敗れた日本が、これを契機に一挙に戦況を悪化させていく時期である。当時、岡本喜八は明治大学の2年生であり、日記にはその年の9月18日から、東宝への就職が決まり助監督として働き始めた翌昭和18(1943)年11月7日までの生活が記載されている。以下、本稿では前田氏によって発見された貴重な岡本喜八の日記の一部を垣間みたい。
まず、この日記からは真面目に大学に通い、必死に試験勉強をする岡本喜八の姿を見つけることができると前田氏は言う。「試験も、もう終ったも同然になった。残った試験は二十三日の商算と取引所論でアル。/(彼等はヘッチャラでアル)/苦しかった。ゼンゼンツラカッタ。〝試験〟てェヤロウの横ッ面を何度、ハッタオしてヤリタク思った事か。/毎晩、否毎朝三時から四時迄ムヤミに机にカジリついた。兵営の屋根のテッペンから天道サンが顔を出したコトもあった。」 (昭和18年2月20日) カタカナ表記が混じる独特の文体から、今の学生同様に試験に苦しむ岡本の姿が目に浮かぶ。
また一方では、やはりこれも学生らしい青年の恋心がつづられている。「昨夜、六さんとトンプクさんの夢を見た。/戦場、薄暗い戦場をオレはトンプクさんと歩いて居た。/と、大砲のタマが飛んで来て、オレは足に負傷した。/トンプクさんは消し飛んでしまったラシイ。見えなくなった。/すると何処からか、六さんが来て、オレに肩を貸せて、山の上に抱き上げてくれた。そしてサヨナラと云って山を駆け下りて行ったのでアル。/オレは後を追った。そして米子の町を二人で歩いた。」(昭和18年1月19日)
「六さん」と「トンプクさん」は、岡本が好意を寄せていた故郷米子の女性と思われ、日記に度々登場し、喜八を悩ませたという。岡本の日記には他にも「美人」を意味する学生語である「シャン」という言葉もよく見られ、そのような当時の学生の風俗を知る面でも岡本の日記は興味深い。
そして、やはり岡本喜八らしく映画に関する記述も多い。「神田日活で姿三四郎を見る。ケッ作だ。新人黒沢明のウデ前にはシャッポを脱ぐ。」(昭和18年4月9日)、「午後、渋谷松竹で、ワタナベと、〝花咲く港〟を見る。クダラナイ大船エーガ〔映画〕。新人木下〔惠介〕は東宝黒澤より落ちる。」(昭和18年7月29日、〔 〕内は補記)、小津安二郎については、「東映食堂でランチを食らい、文化映画ゲキ場に行く。フィルムは戸田家の兄弟。良かった。ダン然楽しいカツドウ〔活動〕で有った。小津ちゃんウマイ。」(昭和18年5月27日)と称賛している。
やがて戦場へ赴くことになる自身の寿命を、上手くて23歳、下手をすれば21歳だと思い、死ぬまでに1本でも多く映画を観ようと決意した岡本は、やがて映画を観ているだけでは物足りなくなり、作る側にまわりたいと思うようになる。 昭和18年7月14日と15日は東宝の入社試験であった。初日は身体検査だったが、日記には「一時より東宝本社で入社試験が有るので、午前中の授業もサボってしまう。/半時間程前に、銀座に向って都電に乗る。そして尾張町の地下で深呼吸を四五十回実施して気を落着けた。」とある。そして翌7月15日の筆記試験では、「頭はコーフン〔興奮〕の為、ボー然とさせ、漠然とした足取りで外へ出たら、『ドーデシタ?』と、政経の学生(笠原とか云った)が寄って来た。(中略)どうも入れっこ無さそうな気がする。何人取るか分んないけど、あんなに志望者が居たんじゃァ。/帰ってセイコン〔精魂〕つき果てて寝転んで居たら、爆撃機に向って、ハヤブサ〔戦闘機〕が、ヒラリヒラリと戦いをイドンで居た。海軍予備学生を受けときァ良かったな。と敗ザン者みたいな気持にナッタ。」とその時の心境を記している。
念願の東宝への入社をあきらめかけた喜八であったが、夢は叶った。だが、時代は戦争の真っただ中だった。わずか3か月の助監督生活の後、徴用工としての任務を命じられることとなる。喜八の日記もこれ以前のところで終了しているが、自分自身でも青春の終わりを自覚していたのかもしれない。その意味において、新しく発見された岡本喜八の日記は、まさに明大生として過ごした青春の記録であった。後に「戦争とは何であったか?」という問いに、それは「友人たちが、声もなく死んで行った日々である」と答えざるを得なかった岡本喜八にとって、戦後の日々が亡き友とともにあったように、学生時代の思い出もまた、友とともにあった喜怒哀楽の日々だったと言えるだろう。
※なお、岡本喜八の概要については、「映画監督・岡本喜八のDNA」( 2024.1)を参照されたい。