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明治法律学校出身のキリスト教伝道師 山野虎市  1881~1926、1903年明治法律学校卒(校友編)

大逆事件犠牲者慰霊碑(新宮市)

2025.10
明治法律学校出身のキリスト教伝道師 山野虎市
 1881~1926、1903年明治法律学校卒

明治大学史資料センター所長
                                  村上一博(法学部教授)

 牧師で小説家の沖野岩三郎は、大逆事件で死刑あるいは無期懲役刑を宣告された、いわゆる紀州グループの被告人ら(大石誠之助ほか)の冤罪を訴えた小説『宿命』などで知られている。その沖野が、大逆事件で危うく逮捕を免れることができたのは、①大石宅で行われた新年宴会(ここで紀州グループの「共同謀議」がなされたと言われる)に呼ばれなかったことと、➁前年夏に幸徳秋水が新宮に滞在し、大石らと舟遊びに饗じたおりに聞いた爆裂弾の話に刺激されて、沖野は戯れに脚本「爆弾」を書いたのだが、その脚本が家宅捜索などで発見されなかったからであった。後者については、山野虎市が危険を察知して関係書類を処分していたことが分かっている。この間の経緯は、舞台をロシアに設定して脚色した、沖野の短編小説「いたずら書」(大正14年)(『私は生きてゐる』に収録)で、次のように描かれている。
 
 牧師のバヴルーシャから、『爆弾』という二幕物の脚本を渡されたイヴァンは、これを売薬行商人カアチェンカに貸したのだが、イヴァンは、関係者が次々と逮捕されたことを知リ、カアチェンカに宛て、かの脚本を処分するよう手紙を送った。この手紙は(証拠が残らないよう配慮して)行商中の宿から宿へと転送されて何とかカチェンカの手に届くとすぐにストーブで焼却された。カアチェンカに警察の手が及んだのは、その三日後であった。
  [村上注]バヴル-シャは沖野、イヴァンは山野、カアチェンカは松島資雄を指す
 
 このような機転を利かせて沖野を危機から救った山野虎市とは、どのような人物であり、沖野とどのような関係にあったのだろうか。
 山野は、1881(明治14)年、和歌山県那賀郡貴志村に生まれた。県立徳義中学校を卒業後、弁護士をめざして上京して明治法律学校に入学した。1903(明治36)年に卒業したのちも、和歌山に帰郷して勉強を続けていた。山野は法曹志望の本学校友の一人だったのである。ところが、山野は、和歌山教会に出入りするうち、沖野岩三郎・加藤一夫らと親交を深め(彼らは三人とも新宮出身で、内村鑑三の感化を受けた点で共通していた)、洗礼を受ける。
 山野は、法律が人間の良心まで律し得ないことを悟って、数年間勉強してきた法律書を悉く焼き払い、キリスト教の伝道に身を投じる決心をする。沖野を追って、明治学院神学部に入学して1907(明治40)年に卒業、卒業後は、唐津(長崎)・小松島(徳島)・川俣(福島)・中村(相馬)で伝道活動を行った。1922(大正11)年10月に、教会を辞して三たび上京、翌年2月、沖野の紹介により、金の星社(現在の「金の船」社)に入社、雑誌『金の星』を担当するなど、詩作に打ち込んだが、1926(大正15)年12月肺炎のため死去した(享年44歳)。
 沖野は、山野の遺稿集『詩集 私は魚だ』の「序詞」で、「読者諸君が此の詩を読んで、彼山野虎市君が、如何に澄徹した人生観をもってゐたか、如何に悲惨な境遇を心的に経過して来たかを知って下さるならば、それは取りも直さず、此の熱情と信仰に富む詩人山野虎市君にたいする、此上もなき追悼供養である事を、私は信じて疑ひません」と、無二の親友の死を悼んでいる。
 山野は、弁護士を目指して明治法津学校に入学して勉学に励んだ。彼は当初の夢を果たすことは出来なかったけれど、沖野岩三郎と親交を深めるなかで、キリスト教の伝道に身を捧げ、大逆事件と遭遇し、またキリスト教児童文学に確かな足跡を残したのである。
 
    【参考文献】山野虎市『詩集 私は魚だ』明治学院百年史資料集第6巻、1977年
        沖野岩三郎『私は生きてゐる』大阪屋号書店、1925年
        野口存彌『沖野岩三郎』踏青社、1989年
        村上文昭「法律書をすて神学生へ」『藤村から始まる白金文学誌』
        明治学院キリスト教研究所、2011年