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第23週「始めは処女の如く、後は脱兎の如し?」振り返りコメント

9月3日(火)から新たな衣装、小道具等を展示しています。写真は寅ちゃんと優未ちゃん親子が着た黄色いワンピースとよねさんのスーツです! 9月3日(火)から新たな衣装、小道具等を展示しています。写真は寅ちゃんと優未ちゃん親子が着た黄色いワンピースとよねさんのスーツです!

 
2024.9
第23週始めは処女の如く、後は脱兎の如し?振り返って
 
明治大学法学部教授、大学史資料センター所長/図書館長
村上 一博

 第23週は、雲野六郎弁護士(塚地武雅さん)が死去するシーンから始まりました。原爆裁判の口頭弁論がようやく始まろうとするとき、くも膜下出血で(したがって、頭を押さえて倒れるはずだったのですが、おにぎりを持っていたので・・・倒れてもおにぎりを離しませんでした)突然死してしまったのです。雲野の遺志を継いで、轟とよねが岩居を補助して、原爆裁判の弁護を担当することになりました。
 
 ここでの雲野六郎は、岡本尚一という実在の弁護士をモデルにしています。極東国際軍事裁判にも関わった岡本は、原爆投下という戦勝国側の行為が何等の責任も問われないのは不公正であり、また1899(明治32)年のハーグ陸戦条約(「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」)が禁止していた無差別攻撃、「不必要な苦痛を与える兵器」使用に該当し、国際法違反ではないか、そうだとすると被爆者は損害の賠償をアメリカ合衆国に請求できるのではと考えたのです。そこで、広島と長崎の被爆者とその遺族、同地の弁護士たちに呼びかけたのですが、賛同者は、原告となった5名、弁護士は松井康浩らごく少数にとどまりました(したがって、岩居のモデルは松井弁護士です)。岡本は当初、アメリカ政府や原爆投下に関わった指導者らを提訴しようとしたのですが、アメリカで予想される多額の弁護士費用、加えて、サンフランシスコ平和条約(1952年発効)において日本政府が賠償請求権を放棄していることなどを考慮した結果、アメリカ政府ではなく日本政府を被告とすることにしたようです。
 
 ドラマでは、史実通りに、準備手続きは昭和34年11月19日に終了、第1回口頭弁論は昭和35年2月8日に開かれるという設定にしています。口頭弁論を目前にして、雲野は死去しましたが、岡本が死去したのは、準備手続きが終了する前年の昭和33年4月5日でした。
 
 ドラマで原告側が申請した鑑定人は保田敏明教授、被告側は嘉納隆義教授でしたが、実際の鑑定人は、原告側が安井郁(東京帝大教授→法政大学教授、原水爆禁止日本協議会〔原水協〕理事長)、被告側が田畑茂二郎(京都大学教授)と高野雄一(東京大学教授)でした。いずれも、著名な国際法学者です。安井と田畑は、原爆投下は「非人道的、無差別爆撃であり国際法に違反する」と明言し、高野も「国際法違反の戦闘行為とみるべき筋が強い」と結論づけていましたが、戦争犯罪に対して個人が賠償を請求できるかについては、積極的に肯定する見解は出されませんでした。
 
 ドラマでは、原爆裁判が始まった当初、傍聴人席は、雲野の意を受けた竹中次郎記者(高橋努さん)が、ただ一人座っていて閑散とした状態でしたが、竹中の渾身のルポが雑誌に掲載されたことで、しだいに世間の注目を引くようになり、途中から多くの記者が詰めかけるようにしてあります。もっとも、昭和38年12月7日の判決当日の実際の法廷は、傍聴席には、報道各社のほかには、鑑定人の安井教授がいた程度で、原告や関係者の傍聴はなく、静かな法廷だったようです。
 
 判決では、通常冒頭で述べられる主文(原告の損害賠償請求を却下する旨)を後に回し、判決理由の要旨が読み上げられました(当時の民事裁判では異例な措置でした)。判決の結論としては、原告の請求を却下せざるを得なかったとはいえ、原爆投下を国際法違反と明言し、日本政府による被爆者救済の施策を強く求めた内容でした。実際の判決文を抜粋します。
 
 「・・・原子爆弾の巨大な破壊力から盲目爆撃と同様の結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である。」
 「・・・国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。」
 「・・・[しかしながら]それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。・・・終戦後十数年を経て、高度の経済成長を遂げたわが国において、国家財政上これが不可能であることはとうてい考えられない。」
 「・・・われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。」
 
 三淵嘉子は、第1回口頭弁論から結審に至るまで担当し、判決文にも右陪席として署名しているのですが、言い渡しの法廷にはおりませんでした。三淵は、結審後の昭和38年4月に東京家庭裁判所に異動となっていたためです。また、原爆裁判について、生涯、一言も語ることはありませんでした。判決文の起案に関わっていたかどうかも明らかではありません。合議の秘密を厳守したためなのか、理由はいくつか考えられますが、真相は不明です。
 
 「政治の貧困」を訴えたこの判決から5年後の昭和43(1968)年に「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定され、その後25年以上経過して、ようやく、平成6(1994)年に「被爆者援護法」が制定されるに至りました。原爆裁判が、被爆者救済に道を拓いた意義は大きいと言えるでしょう。
 
 なお、第23週では、寅子の更年期障害(症状はあまり重くはなかったですね)や、百合の痴呆症(現在だったらアルツハイマー型認知症でしょうか)も描かれました。のどかは、明律大学文学部英文科を卒業して銀行に勤めたことも分かりました。優未がのどかを蹴り上げるシーンも良かったですね。また、梅子がようやく桂場から団子(餡)の合格認定を貰い、さらに「竹もと」が、道男のすし屋と合併するという、奇妙な展開になりました。(「竹むら」がすし屋になる話はまったくありませんからご安心を)。
 
【補足】
 第22週の振り返りコメントの中で、「昭和31年現在・・・司法試験合格者は75名と、女性法曹の数は確実に増えてはきた・・・」と書きましたが、昭和31年度までで、高等試験司法科および司法試験の合格者を合計すると70名でした。訂正しておきます。
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