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師弟食堂 — 校友山脈を支え続ける学食 — (前編)(キャンパス編)

師弟食堂の命名者である志田鉀太郎総長 師弟食堂の表額を記した木下友三郎前総長 初当選した頃の三木武夫元首相(1937年)

 2021.6
師弟食堂 — 校友山脈を支え続ける学食 — (前編)
 
明治大学史資料センター運営委員
川口 誠人(学術・社会連携部長)
 
 明治大学の老舗学食「師弟食堂」は、1941(昭和16)年12月4日に誕生した[1]。太平洋戦争開戦の4日前であり、今年で80周年を迎えることになる。戦中戦後の激動の時代を含む80年にわたり、将来の校友山脈を築いて行く学生を支え続けてきたのである。名称の由来は、1942(昭和17)年1月の明治大学新聞によれば、「師弟一堂に於いて食事を取れば至極打解けて相互の心と心との結びを堅くしていけると考へ、志田總長は此の食堂を師弟食堂と命名され、表額は名筆を以て聞える木下前總長に志田總長より委嘱して出来た」[1]とされている。
 校内食堂の開設はかねてよりの懸案であり、食堂開設の4年前、1937(昭和12)年6月の駿台新報には、「食堂開設については昨年あった調査委員会は今年の学校幹部の更改で自然消滅の形ちです。しかし新幹部の間で寄り々々協議して居るのですが場所とか規模或いは学校経営にすべきか請負制度にすべきかは重大な問題ですから慎重を期したいと思ふ」[2]と報じられている。食堂開設当時の明治大学新聞にも、「校外食堂の種々の弊害と相俟って、学園内に食堂設備の聲は夙に叫ばれてゐたが、久しく實現を見ず昨年二月頃より志田總長の手により本格的に具體化され」[1]たとあり、待望の学生食堂の開設であったことがわかる。この記事にある「種々の弊害」とは、①校外の食堂の値段が高く、学生の家計を圧迫する可能性があること、②バランスの悪い食事で、学生の健康に影響をきたす可能性があること、③学生食堂がないために、学生の不良行為が懸念されるカフェなどの「特殊飲食店」に出入りすること等を指したものと考えられる。
 開設当時の食堂は、「階下百三十坪階上五十坪の廣大さで同時に食事が出来、人員約四百名、殊に階上は集會用に供し得る」[1]、「一階二階共に収容人員二百名」[3]とあり、建物は2階建て、総収容人員は400名であったことがわかる。1階は現在のリバティタワー17階の「スカイラウンジ暁」と、2階はリバティタワー23階の「岸本辰雄記念ホール」とほぼ同程度の広さであった。
 1941(昭和16)年9月の「明治大学食堂経営に関して」の契約書[4]には、財團法人明治大学の契約相手として平井茂則氏の記載があり、氏に師弟食堂の経営が任されたことがわかる。氏のご子孫(現在の師弟食堂取締役)によれば、「平井茂則は、明治大学を中退し、戦前は食品等の物資を流通させる仕事をしていた。その中で明治大学の関係者より学生食堂の運営を依頼され、鵜沢総長をはじめ色々な方と仕事をさせて頂いた。志田総長、木下総長との関係はよくわからないが、お酒がお好きな様で、ご一緒させて頂いたと聞いている」[5]とのことであった。
 氏の妻の平井トク氏も師弟食堂の運営管理者の一人であった。上記ご子孫からは、「平井トクは、平井茂則と結婚し明治大学の食堂の立ち上げを手伝い、調理師と共に中心的な存在として働いていた。戦争中に総選挙があり、三木武夫氏が明治大学で出陣式を行った時、当時貴重であった白米(銀シャリ)のおにぎりを関係者にお出しすることになり、平井トクの実家である千葉県に向かい米を確保し、当時親戚に近衛連隊の将校がおり、その軍用車(ジープ)で足元に米を隠し検問を通り、持ち帰り、炊いてお出しした。かなりひやひやしたと聞いている。食堂に外食券をお持ちになる方がいたとも聞いている。当時は食料もなく、学生さんにお腹いっぱいにしてあげられず、又お金のない学生さんもいて可哀そうだったと聞いた」[5]とのことであった。
 師弟食堂は、校友山脈にひときわ高く聳え立つ三木武夫元首相をも支えたことがあったのである。
 
【参考文献等】
[1] 『明治大学新聞』1942(昭和17)年1月17日, 「教職員と學生の總親和を期し “師弟食堂”生る 志田總長親心実を結ぶ」
[2]『駿台新報』1937(昭和12)年6月26日, 「三科會の希望に 阿保専務 誠意ある回答 但し食堂開設は困難か」
[3]『明治大学新聞』1941(昭和16)年12月17日, 「師弟食堂の名も床しく 待望の学生ホール開かる」
[4] 契約書『明治大学食堂経営に関して』1941(昭和16)年9月, 明治大学歴史編纂事務室
[5] 2021年5月20日他 株式会社師弟食堂赤倉ホテル 平井代表取締役、大沢取締役 インタビュー(メール、電話)
[6]『駿台新報』1941(昭和16)年5月29日, 「ホールを兼ねる 學生食堂完成近し」
[7]『値段の明治・大正・昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 231ページ
[8]『値段の明治・大正・昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 71ページ
[9] 岩崎爾郎 『物価の世相100年』読売新聞社, 1982年, 292ページ
[10]『値段の明治・大正・昭和風俗史[正]』朝日新聞社, 1981年, 135ページ
[11]『明治大学学園だより』1981(昭和56)年5月15日, 「師弟食堂 小川町校舎に」
 
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