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秋もたけなわの頃、東京六大学野球秋のリーグ戦が始まる。
今年はどうも戦況がかんばしくはないが、澄んだ秋空のもとで白球を追う姿はいつ見てもよいものである。野球の試合といえば、ゲーム前お互いにエールの交歓にスクールカラーを染抜いた応援旗が交互するのも心楽しいものである。
明大のスクールカラー《紫紺》は六大学の中でもひときわ落ち着いた色あいをかもし出している。
制服を着なくなった学生が多い中でも、スクールカラーを模したセーターなどを着る若者たちを時折大学キャンパス内で見かけることがある。
しかし、どうして《紫紺》が明大のスクールカラーとなったのかを知る人は少なくなった。
正式には大正4年4月、本学の校旗が制定された時にはじまっている。時の学長木下友三郎先生のとき決められたものである。
今年はどうも戦況がかんばしくはないが、澄んだ秋空のもとで白球を追う姿はいつ見てもよいものである。野球の試合といえば、ゲーム前お互いにエールの交歓にスクールカラーを染抜いた応援旗が交互するのも心楽しいものである。
明大のスクールカラー《紫紺》は六大学の中でもひときわ落ち着いた色あいをかもし出している。
制服を着なくなった学生が多い中でも、スクールカラーを模したセーターなどを着る若者たちを時折大学キャンパス内で見かけることがある。
しかし、どうして《紫紺》が明大のスクールカラーとなったのかを知る人は少なくなった。
正式には大正4年4月、本学の校旗が制定された時にはじまっている。時の学長木下友三郎先生のとき決められたものである。
先生は「色階の最上位は深紫です。延喜式に拠りますと袍の色にも段階がありまして、天子の御衣は黄爐染として黄に樺のかかったもので、其の他は紫、緋、緑、縹の順位があり、即ち深紫は1位、浅紫は2位、深緋は3位、浅緋は4位、ついで深緑、浅緑、深縹の順で緋は4位以下の色であり、下級の公家を嘲笑して5位の赤蜻蛉などといわれていたもので、私には好感がもてなくて、それ故向上の意味を写して深紫を採用したわけです」と語っている。(駿台新報、昭和14年10月17日)
何となく出すぎたきらいがないでもない。かつてスクールカラーの由来を調べているときに、当時(明治中期頃)までは駿河台あたりにも野の花が咲き乱れており中でも一きわ露草の紫草がきわだっていた。それ故、明大のカラーを<紫紺>にしたのだと聞いた事がありますと古老の人が話してくれたことがある。何だか作り話めくのだが、どうもこちらの方が素朴で似合うように感じる。(Y・M)
明治大学学園だより第4号(1971年10月1日発行)
「大学史おちぼ集3」より転載
何となく出すぎたきらいがないでもない。かつてスクールカラーの由来を調べているときに、当時(明治中期頃)までは駿河台あたりにも野の花が咲き乱れており中でも一きわ露草の紫草がきわだっていた。それ故、明大のカラーを<紫紺>にしたのだと聞いた事がありますと古老の人が話してくれたことがある。何だか作り話めくのだが、どうもこちらの方が素朴で似合うように感じる。(Y・M)
明治大学学園だより第4号(1971年10月1日発行)
「大学史おちぼ集3」より転載