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発祥の地記念碑コラム①

創立期の明治法律学校(想像図)

なぜ明治法律学校は有楽町数寄屋橋に校舎を構えたのか?

そもそも明治法律学校の開校は、1880(明治13)年11月中旬、法律学校・講法学舎の運営に不満を持つ学生10数名が同校を退校し、同校講師であったのちの明治法律学校創立者宮城浩蔵、岸本辰雄、矢代操に、新たな法律学校の設立を願ったことに端を発します。
学生たちは講法学舎で事務を執っていた斎藤孝治(1856-1917 弁護士、のち東京府議会議長等歴任)に新しい法律学校の教場探しを依頼しました。ほどなく斎藤は、数寄屋橋のたもとにある有楽町3丁目1番地旧島原藩上屋敷を見つけ出し、その一部を法律学校の教場として借りることにしました。旧藩邸のうち借りた部分の面積はおよそ373坪、建坪は約315坪で、家賃は月50円でした。
旧大名屋敷を借りることにしたのは、広さと立地を考慮したものと推測されます。学生多数を屋内に収容して授業を行うには、ある程度の広い空間が必要となります。当時その条件を満たす施設は寺社や旧武家屋敷に限られていました。大広間のある大名屋敷は教室に転用するのにはうってつけだったといえるでしょう。
またこの屋敷が、創立者たちをはじめとする講師にとっては、当時丸ノ内にあった司法省などの官庁街や神田・本郷の教育機関に比較的近距離だったことも好都合であったと考えられます。創立期の講師たちはいずれも専任の教員ではなく、日中は官庁や大学で別の仕事を持っていたためです。
こうして1881(明治14)年1月、明治法律学校はスタートを切りました。開校時の入学生は44名、そのうち講法学社出身の学生は17、8名であったといいます。

参考文献

明治大学「大学発祥の地」記念碑建立委員会編(山形万里子稿) 『明治大学の発祥(はじまり)』1995年
明治大学史資料センター編『明治大学の歴史』2015年