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発祥の地記念碑コラム③

1886年甲賀町校舎 1891年ニコライ堂から見た明治法律学校

駿河台南甲賀町への移転(1886・明治19年)

創立者たちの努力の甲斐もあって、江戸時代に建てられた古びた武家屋敷の下で、西欧の最新法学を学ぶ学生たちは徐々に数を増していきました。開校当初44名に過ぎなかった学生数は、1881(明治14)年暮には381名、翌82年には406名、83年には345名を数えました。学校は実績を蓄え盛況を迎えていたが、急激に増加する学生への対処が喫緊の課題となっていきます。急ごしらえのキャンパスである旧島原藩邸には、多数の学生を受け入れるキャパシティはありませんでした。こうして学校の移転計画が課題となっていきます。
創立者たちは新しいキャンパス探しに奔走し、神田区駿河台南甲賀町一一番地(現千代田区神田駿河台一丁目。駿河台日本大学病院付近)に約400坪の好適地を見出しました。早速創立者たちは同地を借り受け、自前の校舎を建築して移転をすることに決定します。当時神田区内の西側には教育機関が集中していました。西側は旧武家地であり、土地の区割りが広く、教育機関のように、広い区画が必要な施設は神田区の西側に固まっていました。神田西側周辺に東京大学、学習院、東京外国語学校(現東京外国語大学)、高等商業学校(現一橋大学)、高等師範学校(筑波大学の源流)など官立学校が多数所在し、私立学校は東京物理学校(現東京理科大学)、独逸協会学校(現獨協大学)などがありました。有力法律学校も神田の西側に所在していました。東京法学校(法政大学の源流)は神田小川町、英吉利法律学校(現中央大学)は神田錦町、専修学校(現専修大学)は神田今川小路にありました。日本法律学校(現日本大学)も1895(明治28)年に神田三崎町に移転してきました。各学校とも急激に増加する学生たちを受け入れるため、神田での施設整備を進めているさなかでした。明治法律学校も、各校と同様に神田の地にキャンパスを移転させる運びとなります。
建設資金を苦労して捻出し、駿河台に新キャンパス(南甲賀町校舎)が落成したのは1886年12月のことでした。

参考文献

明治大学「大学発祥の地」記念碑建立委員会編(山形万里子稿) 『明治大学の発祥(はじまり)』1995年
明治大学史資料センター編『明治大学の歴史』2015年