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教養デザイン ブック・レビュー

丸川 哲史・岩野 卓司 編『野生の教養Ⅱ 一人に一つのカオスがある』法政大学出版局(2024年)※編者執筆者は、教養デザイン研究科教員・関係者

紹介者:倉石 信乃(理工学部教授)

 カオスが秩序との対概念として考察の対象となることは、古からの道理と目されてきた。しかしカオスとはいうまでもなく、安定した観察の位置をたえず脅かすものとして現れるのであり、脅かしのそばから人を巻き込み自らの内に置く。ついにカオスの外部にいることなどできはしない。本書の副題で「一人に一つのカオスがある」とされるのは、多くの充実した執筆陣を擁しての、カオスを定義する範例の多様性ゆえではない。この論集が、カオスを客体化して観察し記述することの不可能や、その内部にいることの避けがたさにどこかでたえず触れているからではないか。教養を説く者だけでない、万人にカオスはつねにすでに分有される。だからこそカオスの考察には、己もその内側に位置しているか否かという「姿勢」が、審問に付されるのだ。必要なのはカオスを手懐ける方便としての「知」ではなく、それと共に生きるための技術=アートなのである。ハンス・ヴィトマーの構想した来たるべき未来社会とアナーキズムとの親和性を論じる田中ひかる、デヴィッド・グレーバーから「創造的可能性に満ちた……ベーシックなカオス」を導出する佐久間寛に学びうるのは、何よりもまずそうしたアートを求める姿勢であろう。いまや深刻な「緊急事態」としてのカオスは延伸している。たとえばサンフランシスコのような、ついこの間まで都市全体が文化的な先端性と洗練に満ちていた場所でさえ。石山徳子の報告にあるように、同地の公共図書館が野宿者たちの最低限の生存を支える、福祉の場へと急ぎ変貌せざるを得ない実状は、否応なく公的な文化施設の基本機能を根底的に問い直させる。私は、いまから30年前の阪神・淡路大震災の直後に神戸を訪れ、当地における基幹的な文化施設である美術館が何よりもまず、住民の避難所として使用されるばかりか、遺体安置所となっていた事績を想い起こした。緊急事態というカオスが常態化する現代社会においてすべての文化施設は、まず福祉に接続する場であるほかはない。
 本書は何処から読んでもよい。カオスが人為による秩序の手前にある自然として、また秩序と対立する反秩序として、さらには秩序のエントロピックな崩壊としてそれぞれ描出されるにせよ、どの行間からも現実の裂け目である不定形なカオスはその実像を現しまた影のように付随して、読者を充実した解答なき問いへと誘う。カオスの得体の知れない力を、理解可能で利用可能なものへと置換すること。かえって20世紀前半の反制度的な前衛芸術は、かかる性急な置換に荷担し、秩序もろとも不分明な領域に巣くう旧来のカオスを破壊した。それは、歴史なき「いまここ」にある「このもの」の賛美と、速度、動勢、力の崇拝に彩られた新秩序を生みだそうと企図した。丸川哲史が示すのはこうした未来派的な「戦争の美学化」が、坂口安吾の小説『白痴』の主人公・伊沢の持つイロニーの幾ばくかと同期し、かつ21世紀も四半世紀を経た現在でも相応の力を持ち得ていることである。他方、伊沢の同伴者となる「木偶」であり「白痴」である女の「無心」な顔を丸川は、「戦争の時間を結晶させた表情なき『顔』、カオスそのもの」と捉え返した。この顔が、「一人に一つのカオス」としてこの国に棲息する人々にいまでも分有されたものならば、それらは再帰して止まない「戦争の美学化」に抗する原資たりうるか。彼女の象徴する「無名無数」の生者と死者、その二者の跛行が自ずと見出した、廃墟を縫うか細い「道」は、なお希望の通い路たりうるか。加うるに私の問いはこうである。『荘子』において一度死んだ「よき渾沌」は、彼女のごとき「木偶」たる私たちの受動的身体において、いつ蘇生しうるのか。

目次紹介

 はじめに──「一人に一つカオスがある」の意味
 
第1部 思想・科学
 
カオスと共同性──つながりの基盤となるものについて 【岩野卓司】
読み継がれるアナーキズム・ユートピア構想──bolo’bolo──「カオス」に調和を見出す 【田中ひかる】
渾沌と軍隊 【加藤徹】
カオスを増幅せよ──D・グレーバーの思想とヤブの力 【佐久間寛】
カオスの路上からケアの空間につなぐ──サンフランシスコ公共図書館の葛藤 【石山徳子】
科学が進んでいく時代をどう生きるか 【浅賀宏昭】
過つは人の性、許すは神の心──原子力にカオスはあるのか 【勝田忠広】
女性患者はすべてを打ち明けない──ブロイアー/フロイト『ヒステリー研究』の中の混沌と破壊 【広沢絵里子】
不確実な未来と私たちの選択 【森永由紀】
 
第2部 歴史・社会
 
カウンター・ジハード主義とインターネット・コミュニティ──ノルウェー連続テロ事件とバルカンを結ぶもの 【佐原徹哉】
カオス・アメリカ・『スター・ウォーズ』 【廣部泉】
電子メディア時代のスポーツ──ノルベルト・ボルツのメディア美学と公共圏 【釜崎太】
フランスの教育をめぐる情熱とカオス──私立学校では市民を養成できないのか 【前田更子】
教養を「語」るために──生活のなかの倫理と科学 【羽根次郎】
「カオス」を診断する──ドイツ・ヴァイマル共和国における犯罪生物学の実践と「市民的価値観」 【佐藤公紀】
国境をめぐる煩雑な物語──オーストリアとチェコの境界線歴史点描 【薩摩秀登】
雲南を巡る銭貨の旅 【西川和孝】
 
第3部 文学・芸術
 
安吾『白痴』が上演した戦争と廃墟の「道」 【丸川哲史】
石川啄木の『ローマ字日記』──隠れ蓑の中でのカオス 【池田功】
カオスと消尽──開高健『日本三文オペラ』をめぐって 【畑中基紀】
猫石の謎──永井荷風『日和下駄』の描写から 【嶋田直哉】
混沌の際──芸術の使命 【虎岩直子】
セペフリーの「空の里」 【山岸智子】
交錯する価値観──『常陸国風土記』における土地の神への向き合い方 【伊藤剣】
カオスと神の国──スチェヴィツァ修道院の壁画を読み解く 【瀧口美香】
ベケットがとらえた孤高の芸術家──ジャック・B・イェイツ頌 【井上善幸】
 
特別寄稿
荒ぶる知と「虎ノ門事件」 【山泉進】
 
おわりに──カオスによるつながり 

編者プロフィール

丸川 哲史(マルカワ テツシ)
明治大学大学院教養デザイン研究科・政治経済学部教授。著書:『魯迅出門』(インスクリプト)、『思想課題としての現代中国』(平凡社)、『竹内好』(河出書房新社)、『台湾ナショナリズム』(講談社)。
 
岩野 卓司(イワノ タクジ)
明治大学大学院教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)。
 
※内容やプロフィール等は公開当時のものです。
明治大学大学院