教養デザイン ブック・レビュー
「多元的知性を」
教養デザイン研究科長 丸川 哲史
本研究科の名称として、教養、そしてデザインという言葉が並んでいます。教養とは一つのジャンルではなく、専門性に特化しないで研究を深める方向性を示しています。またデザインとは、気になる現象や問題があった時に、それに向かって創造的なアプローチを作り出す態度を意味します。本研究科は、一つのアプローチ(専門)だけではなく、様々なアプローチを試してみること、またかけ合わせてみることができるということです。そのために、本研究科では、多元的な知性を育むためのスタッフと仕組みを用意しています。
現代社会において引き起こされる問題は、より複雑に、また深刻になっています。人類の歴史においては、戦争や災害は既に克服されたものとも感じ取られてきました。が、そうでもないことは、原発の事故、新型コロナのパンデミック、また近年の戦争においても露呈しました。従来のように理系は理系、社会科学は社会科学、人文は人文などいったように、それぞれ個々の方法で分析するより、クロスオーバーさせないと解決しないことが分かってきました。今日求められる研究は、まさに別個の方法や領域を繋げて思考する、多元的な知性です。本研究科は、思想系、文化系、平和・環境系の三つのセグメントを持ちますが、このどれか一つに所属するとしても、他の系の講義を受けたり、他の専門の教員に指導してもらったりすることができます。またそれぞれの系においても、多元的な仕組みになっています。例えば、思想系ではヨーロッパと東洋の思想を同時に学ぶことができますし、文化系でしたら中国と日本、またヨーロッパの文化を比較するような方向性をもたせています。また平和・環境系においても、フィールドワーク型の研究と原理的な研究を融合させることが可能となっています。
ではもう少しどのような研究が成立するのか、上記に述べたクロスオーバーの例を見てみましょう。例えば、オリンピック・パラリンピックです。もちろん、スポーツ文化という領域で議論できると思いますが、これまでの歴史を見る通り、国家政治が発揚される場所でもあり、また一九八〇年代からは国際資本がとてつもなく関与する祭典ともなって来ました。またパラリンピックの起源はそもそも、戦争で傷ついた人々にとっての「活躍」の舞台でした。すると、オリ・パラという祭典は、歴史学、政治学、経済学、メディア学などを動員したアプローチを掛け合わせなければその現象の本質には迫れないことになるでしょう。またもう一つの例を挙げます。今日、サブカルチャーの受容は大いに高まっていますが、それを単に趣味の範囲に止めず、現代社会の「病」や「願い」の症候として見ることも可能です。例えば、SF映画というジャンルは、古代からある神話の現代的変奏として見ることも可能だということです。そもそも演劇の起源は、先祖や神にささげられる礼拝の延長にあるものであり、それが現代文化の中に入り込んでいる、という解釈も成立するでしょう。
最後に本研究科を他の研究科と差異化して説明するための例を挙げておきます。本研究科は、科学哲学や科学史なども含みますが、一般的には文学研究科と似ていないことはありません。例えばオーソドックスな文学研究では、夏目漱石、魯迅などの人物の文学表現に即した研究などが代表的です。それらのオーソドックスな研究でも、本研究科であるならば、クロスオーバーが可能となるのです。例えば、夏目漱石や森鴎外は日本文学にカテゴライズされますが、実は中国古典にも詳しい人物でしたし、また海外に居た時のあり様、交流の感想などに興味深い叙述が散見されたりします。つまり「日本」の枠をはみ出した部分に面白さがあるわけです。また例えば、それは、魯迅や周作人などのように日本に留学していた中国人文学者にも言えることです。しかし例えば魯迅などは、日本文化そのものよりも、当時の日本でのニーチェ流行などに影響を受けていたりします。また魯迅の弟の周作人は、当時の白樺派の「新しき村」運動に触発され、北京において「新しき村」の支部も作っており、そこに若き毛沢東が教えを請いに来ていたりしました。すると、現代中国文学は、日本や中国の社会運動とも接続関係がある、ということになります。このように見ると、従来の文学部において制度化した視野を外した方が、新たな発見に繋がる可能性があるということです。表題に挙げた「多元的知性を」はこのような意義を持つものです。
(中文版)研究科长致辞 “多元化的知性“ 丸川 哲史
現代社会において引き起こされる問題は、より複雑に、また深刻になっています。人類の歴史においては、戦争や災害は既に克服されたものとも感じ取られてきました。が、そうでもないことは、原発の事故、新型コロナのパンデミック、また近年の戦争においても露呈しました。従来のように理系は理系、社会科学は社会科学、人文は人文などいったように、それぞれ個々の方法で分析するより、クロスオーバーさせないと解決しないことが分かってきました。今日求められる研究は、まさに別個の方法や領域を繋げて思考する、多元的な知性です。本研究科は、思想系、文化系、平和・環境系の三つのセグメントを持ちますが、このどれか一つに所属するとしても、他の系の講義を受けたり、他の専門の教員に指導してもらったりすることができます。またそれぞれの系においても、多元的な仕組みになっています。例えば、思想系ではヨーロッパと東洋の思想を同時に学ぶことができますし、文化系でしたら中国と日本、またヨーロッパの文化を比較するような方向性をもたせています。また平和・環境系においても、フィールドワーク型の研究と原理的な研究を融合させることが可能となっています。
ではもう少しどのような研究が成立するのか、上記に述べたクロスオーバーの例を見てみましょう。例えば、オリンピック・パラリンピックです。もちろん、スポーツ文化という領域で議論できると思いますが、これまでの歴史を見る通り、国家政治が発揚される場所でもあり、また一九八〇年代からは国際資本がとてつもなく関与する祭典ともなって来ました。またパラリンピックの起源はそもそも、戦争で傷ついた人々にとっての「活躍」の舞台でした。すると、オリ・パラという祭典は、歴史学、政治学、経済学、メディア学などを動員したアプローチを掛け合わせなければその現象の本質には迫れないことになるでしょう。またもう一つの例を挙げます。今日、サブカルチャーの受容は大いに高まっていますが、それを単に趣味の範囲に止めず、現代社会の「病」や「願い」の症候として見ることも可能です。例えば、SF映画というジャンルは、古代からある神話の現代的変奏として見ることも可能だということです。そもそも演劇の起源は、先祖や神にささげられる礼拝の延長にあるものであり、それが現代文化の中に入り込んでいる、という解釈も成立するでしょう。
最後に本研究科を他の研究科と差異化して説明するための例を挙げておきます。本研究科は、科学哲学や科学史なども含みますが、一般的には文学研究科と似ていないことはありません。例えばオーソドックスな文学研究では、夏目漱石、魯迅などの人物の文学表現に即した研究などが代表的です。それらのオーソドックスな研究でも、本研究科であるならば、クロスオーバーが可能となるのです。例えば、夏目漱石や森鴎外は日本文学にカテゴライズされますが、実は中国古典にも詳しい人物でしたし、また海外に居た時のあり様、交流の感想などに興味深い叙述が散見されたりします。つまり「日本」の枠をはみ出した部分に面白さがあるわけです。また例えば、それは、魯迅や周作人などのように日本に留学していた中国人文学者にも言えることです。しかし例えば魯迅などは、日本文化そのものよりも、当時の日本でのニーチェ流行などに影響を受けていたりします。また魯迅の弟の周作人は、当時の白樺派の「新しき村」運動に触発され、北京において「新しき村」の支部も作っており、そこに若き毛沢東が教えを請いに来ていたりしました。すると、現代中国文学は、日本や中国の社会運動とも接続関係がある、ということになります。このように見ると、従来の文学部において制度化した視野を外した方が、新たな発見に繋がる可能性があるということです。表題に挙げた「多元的知性を」はこのような意義を持つものです。
(中文版)研究科长致辞 “多元化的知性“ 丸川 哲史