負債と返済から完全に独立した生活はすでに想像するのも難しい。家を買うために住宅ローンを組む。大学に通うために教育ローンを利用する。クレジットカードでインターネットの月額料金が支払われる時には、後日返済されるべき借りを作っている。誰もが「借金人間」だ。さらには、クレジットカードでの買い物の金額がかさみ、その返済のために高い利子のサラ金に手を出し、多重責務者となって生活が破綻する人もいる。あるいは、自殺に追い込まれる。本書第三章で、宮部みゆき『火車』を題材に浮き彫りにされる、金融資本主義の行き着く結果は残酷だ。
本書の副題は「資本主義を克服する、新しい共同性」だ。では、資本主義が暴走する世界とは全く別の社会を求めるのか。あるいは、「借り-お返し」図式を飛び越えた別の社会を構想すべきか。本書の第一章と第二章によれば、選択肢はこのいずれにもない。
第一章ではモースの『贈与論』のエピグラフに現れる古詩『ハヴァマール』、第二章ではシェークスピアの『ヴェニスの商人』の解釈を通して、借りとお返しは、資本主義の登場以前から人間関係の基礎を成していたことが明らかにされる。例えば、贈り物をし、贈り物にお返しをする贈与交換は、友情を維持するための慣習であり、一種の義務であり続けてきた。さらにこのような「慣習」は、同胞には利子を付けて貸してはならないが異教徒にならよいといった仕方で「経済」と結びつく。他方で、たとえ返済が見込めなくても金を貸すというように、友人関係には見返りなしの純粋で「根源的な贈与」も含まれうる。ところが、現代では、これらの三位一体が分解され、資本主義の経済は、借りとお返しの慣習的な人間関係を、数量化された負債の返済へと一元化し、根源的な贈与は「宗教」に振り分けられる。
現代の状況をこう見極めた後、続く第三章で資本主義の悲劇をくぐり抜け、本書は第四章以降で、負債と返済に還元されないような借りの別の可能性を探求していく。
第四章では、モース『贈与論』に登場するニュージーランドのマオリ族の贈与経済と、レヴィ=ストロースがある集団から別の集団へと女性を贈与する風習に見た交換システムの解釈を通じて、贈り物を受け取ったら相手にお返しをするとい返済の論理ではなく、贈り物を受け取ったら別の誰かに贈り物をするというあり方、贈与が新たな贈与を生むような借りの論理が指摘される。第五章では、お返しにとらわれない贈与のあり方が西国分寺の喫茶店クルミドコーヒー店主影山知明のポリシーを例に具体的に論じられる。この店主では、ポイントや割引券を発行せず、代わりにくるみを自由に食べられるサービスなどを行なっている。私たちには「消費者的な人格」と「受贈者的人格」があり、くるみのサービスは時として後者のスイッチを入れ、贈り物をもらったからお返ししたくなる気にさせるという。ただし、消費者的な人格を刺激するポイントや割引券とは異なり、このお返しは店に対してなされる必要はない。帰り道に—お年寄りに席を譲ってあげるといった—もう一つの贈与を引き起こすような「健全な負債感」である。ここには新たな贈与を生み出す連鎖があり、この負債感は苦しみよりも喜びと相性がよい。新たな贈与を連鎖的に生み出すような借りの概念の復活に、資本主義の暴走を止める鍵を見出すサルトゥー=ラジュの着想も紹介される。
だが、最終章では、この着想もまだ「借りを返す」という発想にとらわれているとし、「借りに先立つ贈与」に目が向けられる。それは、神の慈悲をモデルとする自発的な「無償の贈与」である。人間の一つの理想として知られるものだ。だが、それが単なる理想でないことは、ソルニットの「災害ユートピア」や彼女が言及するクロポトキンの「相互扶助論」が例証している。この種の根源的な贈与は現代では宗教的とされがちだが、人々の実生活のなかに見出せるのだ。こうして、本書はグレーバーの「基盤的コミュニズム」に至る。
ここでいうコミュニズムとは、マルクスの『ゴータ綱領批判』に現れる「各人はその能力に応じて[貢献し]、各人はその必要に応じて[与えられる]」に準じたものだ。例えば、見知らぬ人に「ライターを貸してくれないか」と聞いて、断れられることは滅多にない。水道を修理している時に「スパナを取ってくれないか」と同僚に聞いた時、「そのかわりになにをくれる?」と聞かれることはない。危機でなくても、そればかりか、会社のプロジェクトにおいても、結局は、資本主義でさえも、コミュニズムの贈与によって成立しているのであり、基盤的コミュニズムに依存しているのだ。非常に啓発的な指摘だが、他方で、これでは基盤的コミュニズムが資本主義を支えることになる、と本書は指摘する。そもそもスパナを渡す場合でも手が滑って逸れるかもしれない。単なる偶然かもしれないが、相手に対する嫉妬心や憎しみが背後にあるかもしれない。こういうエラーやずれの可能性を考慮に入れ、基盤的コミュニズムをカオスに近づけることで、それを資本主義に奉仕するだけのものにしない工夫を指摘することを本書は忘れない。
ところで、最終章ではクロポトキンが「アナキスト」だということが確認された上で、「今求められているのは、国家や資本主義を破壊し瓦解させるという発想ではない。国家や資本主義の体制のなかでも、それらに依存しないで、自分たちでお互いに解決していけるものがある。それを活用していこうという考えが、相互扶助のアナキズムではないのか。」とされ、アナキスト人類学者のグレーバーの基盤的コミュニズムへと論が運ばれる。この点について最後に簡単なコメントをしたい。
およそ二〇二〇年代に入った頃から出版物にアナキズムの語がよく目に付くようになった。その理由の一つが本書のスタンスに現れているように思われる。資本主義の体制の瓦解ではなく、資本主義の内部で可能な実践としてのアナキズムという観念の流通がその一因ではないか。本書の第六章に登場するワードやフレーズは「お互いに助け合う」とか「つながり」など、たしかに資本主義の内部で十分受容可能なものである。他方、二〇〇年代から十年代にかけて、アナキズムはグローバル資本主義に抵抗する社会運動の方法論として影響力を誇った。ジェネラル・アセンブリ(全体会議)やオキュパイ(占拠)はその政治的な行動様式であり(偶然的なカオスというより)戦略である。アナキズムという語の含蓄の変化の早さを感じずにはいられない。たしかに、本書は、「負債—返済」の論理で暴走する資本主義に歯止めをかけるアイデアを、息の長い議論を通じて、「返さない借り」「贈与の連鎖」といった概念で提示した。そのために、文学、経済、文化人類学などの言説を取りまとめる著者の思想家としての力には圧倒される思いがする。ただし、その副題にあるように「資本主義を克服する」思想を練り上げるには、次の一歩として、同僚にスパナを渡すことと、街頭行動で見知らぬ隣人と共にあること-自ずとやり取りし始めること-とのつながりを再考することがあるように思われる。