本シリーズは、制度に抗する「野生」と予測不能な「カオス」を称揚し、旧来の「教養」を複数の視点から批判する書物として好評を博してきました。第III巻は、「旅」と「芸術」を切り口に、未知との出会いが私たちをどのように変容させるのかを問い直すものとなっています。教養は、カルチャーを享受しなんらかの安寧をもたらすためではなく、混沌とした世界へ旅立ちそれを新たに探る術(アート)としてある。少なくとも私はそうあってほしいと思っています。
たしかに本書の跋文に述べられているように、旅や芸術、そして教養自体がある種の「特権」になってしまっている現状から目をそらすことはできません。私も、語学教員でありながら、学生たちに留学を勧めるときにためらいを感じてしまっています。ここ数年、特にむずかしい状況が続いているのです。
しかしそれでもなお、この本を皆さんに手にとってもらいたい。ぱらぱらとページをめくってみてほしい。本書の特徴はまず、詩、エッセイ、漫画、回想など、多様な形式でいくつもの旅の出発点が用意されていることです。明治大学教養デザイン研究科と理工学研究科建築・都市学専攻総合芸術系に所属する教員12名の執筆者がそれぞれの方法で世界の見方を提供してくれるのです。
全体を見渡すと、一貫した姿勢も見てとれます。それは、平戸(山本)やマルタ(清岡)、マンハッタン(石山)や沖縄(岩野)、ヤップ(丸川)や尾道(ハラルミ)といった島々や木津、宇治、加茂、桂(倉石)や揖斐、利根、吾妻、シューパロ、球磨、美和、渡良瀬といった河川(菅(+川瀬+林+結城+松田+姜))、つまり、地と水の接合地が語りの中心になっていることです。私たちは旅というとどうしても旅行や観光をイメージしがちですが、島や川がイメージさせるここからあそこへの移動こそが旅のひとつのあり方だと本書は語っています。乗物にのって物見遊山をするだけが旅なのではなく、日常から離れそこに行くという行為そのものが異なる体験をもたらすのだと言わんとしているのです。
旅という現象の現代的広がりを見すえ、それを災害時の歩行(鞍田)やプリミティヴへの遡行(中村)、政治的亡命(田中)といった今日的話題につなげて紹介する態度も顕著です。これらは果たして旅なのか、といぶかる向きもあるでしょう。そのような疑問をもつ方には、人類学者レヴィ゠ストロースの名著『悲しき熱帯』に読まれる反旅行的側面(佐久間)が参考になります。
『悲しき熱帯』は、フランスからアメリカへの渡航、南米における移動調査、そして南アジアでの滞在というように「旅をめぐる書物」であることに疑いはない。しかし、この本は「旅を徹底的に否認している」というのです。レヴィ=ストロースの「旅というのは偽り」であるということばは、旅をする私たち(と旅を勧める私)に自省をうながし、改めて旅とはなにかを考えさせる契機となるものです。
本シリーズのキー概念となっている「野生sauvage」の発想源は、同じレヴィ゠ストロースの著作『野生の思考』にあると第I巻ですでに宣言されていました。この「野生」という発想には、大学や制度における「教養」をぐらぐらとさせるなにかを含んでいます。第III巻を通読し、それぞれの旅を追体験してみると、そのような不安を感じることになるでしょう。しかし、その不安こそが本シリーズの魅力なのだと思います。