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教員からのメッセージ

情報コミュニケーション学とは何か

大黒 岳彦 教授 大黒 岳彦 教授

  学部のホームページやパンフレットなどをご覧いただければお分かりになるとおり、情報コミュニケーション学部では「情報コミュニケーション学」という今までにない新しいディシプリンの立ち上げに学部全体で取り組んでいます。情報コミュニケーション学は、既存の法学、経済学、政治学、社会学などの社会諸科学、また哲学、心理学、言語学などの人文諸科学を「情報」と「コミュニケーション」というキーワードを軸に連携させ、多角的・総合的に現代社会の諸問題にアプローチするための方法と枠組みを提示することを目指すものです。
  私たちがこうした取り組みを行うのにはいくつかの理由があります。一つは何といっても、今世紀が迎えつつある高度情報社会をトータルに捉え、分析する視座を設定することの必要性です。電子商取引やデジタルマネー、電子政府や電子投票、デジタル著作権やオンライン犯罪など、既存の学問体系からはみ出す情報社会に特有の現象が多発していることはご存知のとおりです。こうした新しい現象を扱うための学問的な枠組みを創ることが急務だと私たちは考えます。
  次に、学問の世界では諸学科が専門分化し分断された結果、トータルな社会像・世界像を構築しにくくなっていることが挙げられます。とはいえ上から天下り的に原理原則を押しつけるのでは、各学科の自主性や創意が損なわれてしまいます。そこで、各ディシプリンの専門家が問題意識や提案を持ち寄り、それを様々な角度から検討し鍛えた後に再び自己のフィールドにフィードバックするための「場」を情報コミュニケーション学は提供します。
  第三には、情報社会に即した幅広い教養を身につけ、また柔軟な発想を紡ぎ出せる有能な人材を育てるという社会の大学に対する要請に応えることです。電子機器を使いこなすメディアリテラシーや外国語コミュニケーション能力、プレゼンテーション・スキルの陶冶はもちろん重要ですが、これらを単なる手段として、テクニックとして習得して事が済む段階は既に過去のものになったと私たちは考えています。情報の海の中で自らの問題を発見し、自ら調査・思索し、独自のアプローチを編み出す姿勢、情報社会を生き抜ける「人間力」こそが今求められているのではないでしょうか。その意味で、学生諸君には過去の学問の成果を踏まえながらも、自らの頭で考え行動する柔軟で自由な、しかし主体的な取り組みを期待します。

脳の進化から見た情報社会

石川 幹人 教授 石川 幹人 教授

  現代は情報社会であると言われて久しい。確かに新入生のパソコン所有率も8割を超えているし、インターネットを使えばさまざまな商品が購入でき、宅配便で届けてもらえる。電子メールやホームページの技術は、個人レベルの情報発信や、見知らぬ人との情報交換を可能にしている。しかし私たちは、その表面的技術革新が必ずしも幸福感を増進しないことに気づき始めている。
  進化心理学者のロビン・ダンバーは、サルにおける毛づくろいに代わって、人間では言語が発達したのだと主張する。つまり、言語によって人々は、自らの社会的位置づけを確認できるようになり、150人規模までの集団形成能力を獲得したと言う。しかしその能力は、約1万年前までの長い狩猟採集生活に適応したものであり、それ以降はほとんど向上していないとされる。生物の進化において、1万年とはきわめて短い期間なのである。その1万年前から農耕が始まり、都市が生まれ、人間文明は飛躍的進歩をとげた。情報技術にいたっては、ごく最近に登場したのだ。ところが人間の脳は、いまだに1万年前の形そのものなのである。
  ダンバーの説に従えば、私たちの脳は何百人もの人々と直接情報交換できるようには作られていない、となる。そこで私たちは自ずと、階層的組織を築き、社会的制度を決めて、対処してきたのである。現代の情報技術を用いれば、組織や制度にとらわれない自由なコミュニケーションが可能であると言われるが、私たちの脳はそれを十分に活用できず、むしろ過剰な負荷に悩んでいるのだ。
  しかし現代の民主主義社会において、情報技術が提供する利点も多くある。国会議員のホームページを見れば、議院活動の現況がよくわかる。市民グループのホームページでは、志を同じくするボランティアを広く募っている。こうした情報技術の利点を活かしたコミュニケーションを、いかに脳に負担をかけずに濃密なものへと確立していくか、それがこれからの情報社会の課題である。またその課題の解決には、人間と社会の可能性を見抜く目が必要となる。情報コミュニケーション学部を巣立つ若者には、そうした視点を身につけてもらいたい。

コミュニケーションが足りないの?

施 利平 教授 施 利平 教授

  現代の私たちは多かれ少なかれコミュニケーションの問題を抱えている。学生にとっての友人関係やサークルの人間関係、また社会人にとっての職場の人間関係、さらに家庭内の親子関係や夫婦関係について、何らかの点でうまくいっていないことも多い。私たちはどうしてコミュニケーションがうまくできないのかを悩み、自分はコミュニケーション下手ではないかと考えたりもする。すべての問題点はコミュニケーションの能力であるような気がして、何かがあるときに自分や人のコミュニケーションのあり方を点検しがちである。
  しかし、現代人は本当にコミュニケーションが下手なのか。もちろん、そういう説を探せばいくらでも出てくる。若者は人との付き合いが表面的でしかなくなり、人を傷つけるのも、自分が傷つけられるのもいやだから、極力それを避けようとし、当たり障りのないことしか表現できなくなる。だから、不完全感が残り、常に自分を理解してくれる、受け入れてくれる人を探し続けなければならない。実際に学生たちのやり取りを見ていたら、その説があたっているような気もする。しかし、そういう現象は若者に限ったことでもなければ、また現代の問題とも限らないのではなかろうか。親子、夫婦の会話を見てみても、どのくらい互いに納得できる会話をしているのだろう。
  それよりむしろ、現代ではコミュニケーション強迫現象までが見られる。少年犯罪が起きるたびに、その少年(少女)は実は人との付き合いが下手で、同年齢の友人や家族ともうまくコミュニケーションが取れていなかったなどと報道される。また、学校でも職場でも明るくて楽しい人は、人気者となり、その反対に物静かな人や口ベタな人は敬遠される。評価の基準はコミュニケーション能力そのものである。私たちが常に積極的に人とコミュニケーションを取らざるを得ない、人から敬遠されるような人になってはいけないと強制されているように思われる。しかし、世の中にはいつの時代もそうであろうが、やっぱりコミュニケーション上手な人もいれば、そうでない人もいる。そしてコミュニケーションに重きを置く人もいれば、そうでない人もいる。多様な価値を認め、異なった生き方をする人との共生を提唱している現代の社会であるのに、コミュニケーション下手な人やそこに重きを置かない人の存在やその生き方を否定しているのではないかと思う。
  私たちの生活している社会は何に価値を置き、どのような変化を遂げてきたのかを知ることによって、コミュニケーション不足など、私たちを苦しめているものの正体が見えてくるだろう。