Master of Public Policy, MPP

公共政策のプロフェッショナルを育成する公共政策大学院ガバナンス研究科

【長畑誠専任教授】「Withコロナ」時代の地域社会

本コラムは長畑誠専任教授が執筆しております。 筆者:長畑誠教授

1都3県等の緊急事態宣言解除から2週間超が過ぎた(この原稿の執筆時点)。これまでのところ感染者数の急激な増加は見られず、様々な「自粛要請」も徐々に解かれてきた。しかし3か月近くの「コロナショック」が私たちの社会や経済に与えた影響はあまりに大きく、すぐに「元の状態」に戻ることは不可能だろう。そもそも新型コロナウィルスの脅威が無くなったわけではない。そして効果的な治療薬やワクチンが開発された後でも、グローバル化された社会においては、いつなんどき新しい感染症が生まれ、私たちの日常に入ってくるか、誰も予測できない。これからの社会は感染症拡大のリスクを常に気にしなくてはいけないだろう。既に「新しい生活様式」や「新しい日常」という言葉が生まれ、ソーシャルディスタンス(社会的距離置き)、3密を避ける、テレワークや在宅勤務、といった「Withコロナ」時代の暮らしが始まりつつある。

さてそれでは読者の皆さんの日常はどうであろうか。公務やインフラ維持、流通等に係る仕事に就く方々にとっては、感染防止に気を遣いながらの大変な日々であったと思う。一方、在宅勤務を続けた方々は、「家族と過ごす時間が増えた」「家の環境がそもそもテレワークに向いていない」「休校期間中の子どものケアが大変だった」といった感想を持たれたかもしれない。また「高齢の親への介護の心配が増大」「地域のボランティア活動や生涯学習の機会がなくなった」「SNSやテレビ会議システムを使っての会話が増えた」等々もあるかもしれない。

筆者の場合、明治大学全体でオンライン授業となり、会議もすべて遠隔で行うため、基本的に神奈川県逗子市の自宅から徒歩と自転車で行ける範囲が自分の世界となった。インドネシアへ通っていたNPO活動もお休みとなった。昨年の今頃は自宅で義母の介護をしていた関係で地域の介護サービスに大変詳しくなったが、今年は逗子・葉山のテイクアウト可のレストランや住宅街でひっそり開いているこだわりの店に詳しくなった。そして家の周りの自然(裏山の雑木林や近くの海岸)の移り変わりを感じるのが日課となった。総じてコロナ禍は私たちの行動範囲を狭めたが、その分、人々が自分の住むところとその周り(=地域社会)への関心や繋がりを深める機会となっているのではないだろうか。本稿ではWithコロナ時代の地域社会について考えてみたい。

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コロナ禍の地域社会への影響と今後

<地域経済>

2か月近くの自粛生活は、まず経済面で地域の飲食業や観光業に大きな打撃を与えた。そこに勤める人たちや経営者の暮らしが脅かされている。今後徐々に経済活動が復活してきても、インバウンドの観光客がすぐに増えることは考えられず、テイクアウトの恒常化や単距離移動の観光振興等、新しい業態が模索されていくと思われる。また世界全体の景気後退により、輸出型の工場が立地している地域では、雇用の悪化も避けられず、世界経済に全面的に依存しない、「地産地消」「近産近消」を重視した形の地域経済も求められるだろう。

<子育て・教育>

長期間にわたる休校によって、子ども達の学習遅れだけでなく、家庭環境の差による格差増大が懸念されている。また子どもがずっと家にいたことで、学校の「居場所」としての機能が再認識された面がある。子どもたちは家庭で親(や兄弟姉妹)と過ごすだけでなく、同年代の仲間や家族以外の大人がいるところで過ごすことも大事な成長の機会である。ただ、学校だけに教科学習とそれ以外の機能を持たせることの限界も明らかであり、子ども達にとっての「第三の居場所」作りが地域において盛んになってくることが予想される。

<地域福祉>

コロナ禍の中で圧倒的に明らかになったのは、福祉の世界は「人と人が接する」が基本であることだ。「ソーシャルディスタンス」によって、通所介護も訪問介護も大きな制約を受けた。今後は人手不足だけでなく感染予防の観点からも、AIやロボット、そしてオンライン等による介護・介助も模索されていくだろう。それでも、高齢者や障碍者にとって、「人」と接していくことが「人」としての尊厳の源泉でもあり、それが家族という閉じた枠の中に囲い込まれてしまうのは避けなければならない。感染予防に配慮しながらの対面援助をどのように可能にするのか、模索が続くだろう。なお、大規模な入所型施設がクラスターになっていることから、感染予防の観点からもより小規模な施設(グループホーム等)或いは在宅・通所による介護・介助がさらに主流になっていくことも予想される。

<地域活動>

「不要不急を避ける」自粛によって、地域の自治会・町内会の活動や様々なボランティア活動も大きな影響を受けた。感染への不安から「回覧板」すらも中止した所もあると聞く。しかしながら「移動」が減るであろうWithコロナの社会では、地域の助け合いや課題解決能力が私たちの暮らしの豊かさを決める大きな要素となることは確かである。「3密」を避けながらも、地域で人々が集い、話し合い、一緒に何かをするために、どんな仕組みや配慮が必要なのか。既にそれぞれの地域で模索が始まっている。それはまた、「困りごとの解決」だけでなく、地域としての一体感や人と人とのつながりの強化につながる様々なイベントの実施についても同様である。

<多文化共生>

コロナ禍の最中に問題となったのは、異質なものに過敏に反応し、排除しようとする心の動きである。それは「外からウィルスを持ち込む(ように思える)」外国人や、「自粛を守ろうとしない(ように見える)」夜の繁華街の人々への差別的・排除的な言動となって表れる。気軽に投稿ができてしまうSNS(Twitter等)の存在がそれに拍車をかける。感染症から自分を守ることはもちろん重要だが、異質な他者を攻撃・排除すれば安全というわけでは、もちろんない。むしろ、多様な考え方や暮らし方を受け入れ、ともに学びあうことが、よりレジリエントな社会の形成に役立つと考えられる。

コロナがもたらした新しい可能性

ここまで新型コロナウィルス感染症がもたらした地域社会への負の影響とそれへの対処について述べてきたが、次に「コロナ禍」によって見えてきた地域社会の新しい可能性について3点を述べてこの論考を閉じたい。

<自分の居場所の重要性>

コロナ前の社会では、加速するグローバル化のもと、「世界中、いつでも、どこへでも行ける」ことが進歩であり、希望だった。感染症拡大の不安があるWithコロナの社会では、移動に伴うリスクも認識され、「いま自分の居る場所」が重視されるようになる。どんなところに住み、誰とかかわって、どのように仕事をするのか。これまで「職場と家の往復」の暮らしをして、「家は寝に帰る場所」だった人々の意識が変わる。何か新しいこと、刺激をもとめて外に出た人たちが、自分の暮らす場所やその近隣の地域に関心を持つ。そこから、新しい「地域社会の暮らしや仕事」が生まれてくるかもしれない。

<不特定多数から仲間、そしてオンラインでの学びあいへ>

遠距離の移動が減り、3密を避ける行動様式が日常となると、「不特定多数の人たちが集まる」ことを前提とした事業や活動が難しくなるだろう。むしろ、(たぶん感染していないだろう、と思える)近しい仲間たちと地域で集い、(3密を避けつつ)一緒に飲食をし、ともに何かをする、という行動が増えてくるのではないか。もちろん、「気が合う仲間」だけで何かをするのは限界があるし、異質な人たちとの出会いや多様性も社会のエネルギーになる。そのためにはオンラインでの結びつきが増えていく必要がある。地域を超えた人の繋がりもオンラインで生まれ、学びあいが深まっていくといい。

<過度の人とのつながりから適度な距離感へ>

17世紀半ば、ペストが大流行したイギリスで、アイザック・ニュートンは入学したケンブリッジ大学が休校となり、やむなく帰郷して一人思索にふける中で、万有引力の法則を発見したという。今回のコロナ禍のなかでも、職場に出勤せず、友人とも会えず、独りで過ごす時間が増えた人も少なくないだろう。ただ21世紀の現代はインターネットという「魔法」があり、どこにいても世界と繋がれてしまう。それでも「孤独(孤立ではなく)」な時間を持ったことで、自分を見つめなおし、新しい発見をした人もいるのではないか。Withコロナの時代は、技術の発達により人と人とが過度につながってしまいやすい社会を見直し、人と人の繋がりをもう一度結びなおしていく機会を私たちに与えているのではないかと思う。

それでは、Withコロナの社会では、人と人はどのようにつながり、どんなコミュニケーションをしていくのだろうか。特に「オンライン」と「オフライン」のあり方はどうなのか。これについては、次の機会に考えたい。